にしみじみと見て、犬としたらクロはおばあさんより上かな下かなと訝つた。若い間は芝犬の標準に近い形の、喧嘩にひどく強い犬で、そればかりでなく鷄を殺したとか、兎の檻を壞して盜み出したとか、武勇傳も決して少くない方だつたのだが、今は耳も折れ、尻尾も垂らしがちで、やつと歩く子供達にまで無害な生物と信じ込まれてゐる。頭にはだいぶ白いものが混つてきたし、昔はピンとしてゐた脊骨も今はおばあさんのとは反對に、土の方向へ反《そ》つてきた。人間の背中の曲るのは頭骸の重量に堪へなくなる爲だと聞いたことがあつたが、クロの脊骨は内臟の重みを支へきれなくなつてきたのかも知れない。私は子のない代りに老犬と老女の面倒も見ようといふ自分自身に苦笑せざるを得なかつた。
歸途は學校の運動場を拔けて、そこから二階の彼に何か合圖をしてみるつもりだつた。が、ちやうど自家の二階と向き合つてゐる横門の間に立つと、遙かな窓に低く現はれてゐるのは、彼ではなく、おばあさんの白い頭だつた。
六
一月經つた。おばあさんは彼のつくつてくれた一隅にすつかり腰を落ちつけ、紙を揉んだり、絲を捲いたり、今しまつたものの在所を忘れて探しものをしたり、一坪弱位のところで行儀よく生活してゐる。私は經机のあつた窓際に箪笥を半分だけおばあさん用として出し、その上に亡兄の寫眞を飾つた。すると彼は木肌が白じろしてゐると云つて、スマトラの布をかけてくれた。彼とおばあさんとは不思議にうまが合ふらしい。老年の域に入りかけてゐる彼は、九十三歳といふものに一つの興味を感じてゐるのも事實だ。
「まだまる四十年も生きなくちやならないんだよ、君。」と彼は訪ねてきた社の人に云つた。「君はあと五十年か、ハハ。それも大人になつてからの五十年だぜ。」
客は困つたといふやうな表情になつて、
「お耳も遠くないやうですね。」
「ええ。目も針の針孔《めど》が通らないくらゐのことで、新聞ぐらゐは讀めるんですよ。」
朝はよく彼が自分で珈琲を淹れる。その都度おばあさんの分と稱して小型の茶碗も用意する。或朝珈琲を飮み終つた私が、
「そろそろおばあさんのお粥をかけてこなくちや。」と臺所に立つと、彼はぢき追ひかけてきて、
「なんぼなんでも早すぎやしないかい?」とおばあさんのうれしい時の目の染《うつ》つたやうな表情で云つた。「時計を見違へたんぢやないのか?」
「九時
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