《さ》らせたとは後《のち》にぞ思合《おもひあは》されたのです、今だに一《ひと》つ話《ばなし》に残《のこ》つて居《ゐ》るのは、此際《このさい》の事です、何《なん》でも雑誌を売らなければ可《い》かんと云《い》ふので、発行日《はつかうび》には石橋《いしばし》も私《わたし》も鞄《かばん》の中へ何十部《なんじふぶ》と詰《つ》め込《こ》んで、而《さう》して学校へ出る、休憩時間《きふけいじかん》には控所《ひかえじよ》の大勢《おほぜい》の中を奔走《ほんそう》して売付《うりつ》けるのです、其頃《そのころ》学習院《がくしうゐん》が類焼《るいしやう》して当分《たうぶん》高等中学《こうとうちうがく》に合併《がつぺい》して居《ゐ》ましたから、此《こゝ》へも持つて行つて推売《おしう》るのです、学生時代《がくせいじだい》の石橋《いしばし》と云《い》ふ者は実に顔が広かつたし、且《かつ》前《ぜん》に学習院《がくしうゐん》に居《ゐ》た事があるので、善《よ》く売りました、第一《だいいち》其《そ》の形《かたち》と云《い》ふものが余程《よほど》可笑《をかし》い、石橋《いしばし》が鼻目鏡《はなめがね》を掛《か》けて今こそ流行《はや》るけれど、其頃《そのころ》は着手《きて》の無いインパネスの最《もう》一倍《いちばい》袖《そで》の短《みじか》いのを被《き》て雑誌を持つて廻《まわ》る、私《わたし》は又《また》紫《むらさき》ヅボンと云《いは》れて、柳原《やなぎはら》仕入《しいれ》の染返《そめかへし》の紺《こん》ヘルだから、日常《ひなた》に出ると紫色《むらさきいろ》に見える奴《やつ》を穿《は》いて、外套《ぐわいたう》は日蔭町物《ひかげちやうもの》の茶羅紗《ちやらしや》を黄《き》に返《かへ》したやうな、重《おも》いボテ/\したのを着て、現金《げんきん》でなくちや可《い》かんよとなどゝ絶叫《ぜつけう》する様《さま》は、得易《えやす》からざる奇観《きくわん》であつたらうと想《おも》はれる、這麼《こんな》風《ふう》で中坂《なかさか》に社《しや》を設《まう》けてからは、石橋《いしばし》と私《わたし》とが一切《いつさい》を処理《しより》して、山田《やまだ》は毎号《まいごう》一篇《いつぺん》の小説を書くばかりで、前のやうに社に対《たい》して密《みつ》なる関係《くわんけい》を持たなかつた、と云《い》ふのが、山田《やまだ》は元来《ぐわんらい》閉戸主義《へいこしゆぎ》であつたから、其《そ》の躯《からだ》が恁《かう》云《い》ふ雑務《ざつむ》に鞅掌《わうしやう》するのを許《ゆる》さぬので、自《おのづ》から遠《とほざ》かるやうに成《な》つたのであります、
漣山人《さゞなみさんじん》は此頃《このごろ》入社したので、夙《かね》て一六翁《いちろくおう》の三男《さんなん》に其人《そのひと》有りとは聞いて居《ゐ》たが、顔を見た事も無かつたのであつた所、社員の内《うち》に山人《さんじん》と善《よ》く識《し》る者が有つて、此《この》人の紹介《せうかい》で社中《しやちう》に加はる事になつたのでした、其頃《そのころ》巌谷《いはや》は独逸協会学校《どいつけふくわいがくかう》に居《ゐ》まして、お坊《ばう》さんの成人《せいじん》したやうな少年で、始《はじめ》て編輯室《へんしうしつ》に来たのは学校の帰途《かへり》で、黒羅紗《くろらしや》の制服《せいふく》を着て居《ゐ》ました、此《この》人は何《なん》でも十三四の頃《ころ》から読売新聞《よみうりしんぶん》に寄書《きしよ》して居《ゐ》たので、其《そ》の文章《ぶんしやう》を見た目で此《この》人を看《み》ると、丸《まる》で虚《うそ》のやうな想《おもひ》がしました、後《のち》に巌谷《いはや》も此《こ》の初対面《しよたいめん》の時の事を言出《いひだ》して、私《わたし》の人物《じんぶつ》が全《まつた》く想像《さうざう》と反《はん》して居《ゐ》たのに驚《おどろ》いたと云《い》ひます、甚麼《どんな》に反《はん》して居《ゐ》たか聞きたいものですが、ちと遠方《ゑんぱう》で今|問合《とひあは》せる訳《わけ》にも行《ゆ》きません、
巌谷《いはや》の紹介《せうかい》で入社したのが江見水蔭《えみすゐいん》です、此《この》人は杉浦氏《すぎうらし》の称好塾《せうこうじゆく》に於《お》ける巌谷《いはや》の莫逆《ばくぎやく》で、其《そ》の素志《そし》と云《い》ふのが、万巻《ばんくわん》の書を読まずんば、須《すべから》く千里《せんり》の道を行《ゆ》くべしと、常《つね》に好《この》んで山川《さんせん》を跋渉《ばつせふ》し、内《うち》に在《あ》れば必《かなら》ず筆《ふで》を取つて書いて居《ゐ》る好者《すきもの》と、巌谷《いはや》から噂《うはさ》の有つた其《その》人で、始《はじめ》て社に訪《とは》れた時は紺羅紗《こんらしや》の
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