ひ申候。今も彼《か》の熱海に人は参り候へども、そのやうなる楽《たのしみ》を持ち候ものは一人も有之《これある》まじく、其代《そのかはり》には又、私如《わたくしごと》き可憐《あはれ》の跡を留め候て、其の一夜《いちや》を今だに歎き居り候ものも決して御座あるまじく候。
世をも身をも捨て居り候者にも、猶《なほ》肌身放《はだみはな》さず大事に致候宝は御座候。それは御遺置《おんのこしおき》の三枚の御写真にて何見ても楽み候はぬ目にも、是《これ》のみは絶えず眺め候て、少しは憂さを忘れ居りまゐらせ候。いつも御写真に向ひ候へば、何くれと当時の事|憶出《おもひだ》し候中に、うつつとも無く十年|前《ぜん》の心に返り候て、苦き胸も暫《しばし》は涼《すずし》く相成申候。最も所好《すき》なるは御横顔の半身のに候へども、あれのみ色褪《いろさ》め、段々薄く相成候が、何より情無く存候へども、長からぬ私の宝に致し候間は仔細も有るまじく、亡《な》き後には棺の内に歛《をさ》めもらひ候やう、母へは其《それ》を遺言に致候覚悟に御座候。
ある女世に比無《たぐひな》き錦《にしき》を所持いたし候処《さふらふところ》、夏の熱き盛《さかり
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