見ねばさすがに見まほしく思ひながら、面《おもて》を合すれば冷汗《ひやあせ》も出づべき恐怖《おそれ》を生ずるなり。彼の情有《なさけあ》る言《ことば》を聞けば、身をも斫《き》らるるやうに覚ゆるなり。宮は彼の優き心根《こころね》を見ることを恐れたり。宮が心地|勝《すぐ》れずなりてより、彼に対する貫一の優しさはその平生《へいぜい》に一層を加へたれば、彼は死を覓《もと》むれども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとその堪《た》ふべからざる限に至りぬ。
 遂《つひ》に彼はこの苦《くるしみ》を両親に訴へしにやあらん、一日《あるひ》母と娘とは遽《にはか》に身支度して、忙々《いそがはし》く車に乗りて出でぬ。彼等は小《ちひさ》からぬ一個《ひとつ》の旅鞄《たびかばん》を携へたり。
 大風《おほかぜ》の凪《な》ぎたる迹《あと》に孤屋《ひとつや》の立てるが如く、侘《わび》しげに留守せる主《あるじ》の隆三は独《ひと》り碁盤に向ひて碁経《きけい》を披《ひら》きゐたり。齢《よはひ》はなほ六十に遠けれど、頭《かしら》は夥《おびただし》き白髪《しらが》にて、長く生ひたる髯《ひげ》なども六分は白く、容《かたち
前へ 次へ
全708ページ中51ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング