遽《にはか》に煙管《きせる》を索《もと》めて、さて傍《かたはら》に人無き若《ごと》く緩《ゆるやか》に煙《けふり》を吹きぬ。
「貴方の債務者であらうとは実に意外だ」
「…………」
「どうも事実として信ずる事は出来んくらゐだ」
「…………」
「三千円! 荒尾が三千円の負債を何で為たのか、殆《ほとん》ど有得べき事でないのだけれど、……」
「…………」
 唯《と》見れば、満枝はなほも煙管を放たざるなり。
「さあ、お話し下さいな」
「こんなに遅々《ぐづぐづ》してをりましたら、さぞ貴方|憤《じれ》つたくてゐらつしやいませう」
「憤つたいのは知れてゐるぢやありませんか」
「憤つたいと云ふものは、決《け》して好い心持ぢやございませんのね」
「貴方は何を言つてお在《いで》なのです!」
「はいはい恐入りました。それぢや早速お話を致しませう」
「どうぞ」
「蓋《たし》か御承知でゐらつしやいましたらう。前《ぜん》に宅に居りました向坂《さぎさか》と申すの、あれが静岡へ参つて、今では些《ちよつ》と盛《さかん》に遣つてをるので御座います。それで、あの方は静岡の参事官でお在《いで》なのでした。さやうで御座いましたらう
前へ 次へ
全708ページ中486ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング