。なほ一件《ひとつ》最も彼の意を強うせし事あり。そは彼が十七の歳《とし》に起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる独逸《ドイツ》人は彼の愛らしき袂《たもと》に艶書《えんしよ》を投入れぬ。これ素《もと》より仇《あだ》なる恋にはあらで、女夫《めをと》の契《ちぎり》を望みしなり。殆《ほとん》ど同時に、院長の某《なにがし》は年四十を踰《こ》えたるに、先年その妻を喪《うしな》ひしをもて再び彼を娶《めと》らんとて、密《ひそか》に一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。
この時彼の小《ちひさ》き胸は破れんとするばかり轟《とどろ》けり。半《なかば》は曾《かつ》て覚えざる可羞《はづかしさ》の為に、半は遽《にはか》に大《おほい》なる希望《のぞみ》の宿りたるが為に。彼はここに始めて己《おのれ》の美しさの寡《すくな》くとも奏任以上の地位ある名流をその夫《つま》に値《あた》ひすべきを信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、牆《かき》を隣れる男子部《だんじぶ》の諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。
若《もし》かのプロフェッサアに添
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