の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。一番の勝負の果てぬ間に、宮といふ名は普《あまね》く知られぬ。娘も数多《あまた》居たり。醜《みにく》きは、子守の借着したるか、茶番の姫君の戸惑《とまどひ》せるかと覚《おぼし》きもあれど、中には二十人並、五十人並優れたるもありき。服装《みなり》は宮より数等《すとう》立派なるは数多《あまた》あり。彼はその点にては中の位に過ぎず。貴族院議員の愛娘《まなむすめ》とて、最も不器量《ふきりよう》を極《きは》めて遺憾《いかん》なしと見えたるが、最も綺羅《きら》を飾りて、その起肩《いかりがた》に紋御召《もんおめし》の三枚襲《さんまいがさね》を被《かつ》ぎて、帯は紫根《しこん》の七糸《しちん》に百合《ゆり》の折枝《をりえだ》を縒金《よりきん》の盛上《もりあげ》にしたる、人々これが為に目も眩《く》れ、心も消えて眉《まゆ》を皺《しわ》めぬ。この外|種々《さまざま》色々の絢爛《きらびやか》なる中に立交《たちまじ》らひては、宮の装《よそほひ》は纔《わづか》に暁の星の光を保つに過ぎざれども、彼の色の白さは如何《いか》なる美《うつくし》き染色《そめいろ》をも奪ひて、彼の整へる面《おもて》は如何なる麗《うるはし》き織物よりも文章《あや》ありて、醜き人たちは如何に着飾らんともその醜きを蔽《おほ》ふ能《あた》はざるが如く、彼は如何に飾らざるもその美きを害せざるなり。
 袋棚《ふくろだな》と障子との片隅《かたすみ》に手炉《てあぶり》を囲みて、蜜柑《みかん》を剥《む》きつつ語《かたら》ふ男の一個《ひとり》は、彼の横顔を恍惚《ほれぼれ》と遙《はるか》に見入りたりしが、遂《つひ》に思堪《おもひた》へざらんやうに呻《うめ》き出《いだ》せり。
「好《い》い、好い、全く好い! 馬士《まご》にも衣裳《いしよう》と謂《い》ふけれど、美《うつくし》いのは衣裳には及ばんね。物それ自《みづか》らが美いのだもの、着物などはどうでも可《い》い、実は何も着てをらんでも可い」
「裸体なら猶《なほ》結構だ!」
 この強き合槌《あひづち》撃つは、美術学校の学生なり。
 綱曳《つなひき》にて駈着《かけつ》けし紳士は姑《しばら》く休息の後内儀に導かれて入来《いりきた》りつ。その後《うしろ》には、今まで居間に潜みたりし主《あるじ》の箕輪亮輔《みのわりようすけ》も附添ひたり。席上は入乱れて、ここを先途《せんど》と激《はげし》き勝負の最中なれば、彼等の来《きた》れるに心着きしは稀《まれ》なりけれど、片隅に物語れる二人は逸早《いちはや》く目を側《そば》めて紳士の風采《ふうさい》を視《み》たり。
 広間の燈影《ひかげ》は入口に立てる三人《みたり》の姿を鮮《あざや》かに照せり。色白の小《ちひさ》き内儀の口は疳《かん》の為に引歪《ひきゆが》みて、その夫の額際《ひたひぎは》より赭禿《あかは》げたる頭顱《つむり》は滑《なめら》かに光れり。妻は尋常《ひとなみ》より小きに、夫は勝《すぐ》れたる大兵《だいひよう》肥満にて、彼の常に心遣《こころづかひ》ありげの面色《おももち》なるに引替へて、生きながら布袋《ほてい》を見る如き福相したり。
 紳士は年歯《としのころ》二十六七なるべく、長高《たけたか》く、好き程に肥えて、色は玉のやうなるに頬《ほほ》の辺《あたり》には薄紅《うすくれなゐ》を帯びて、額厚く、口大きく、腮《あぎと》は左右に蔓《はびこ》りて、面積の広き顔は稍《やや》正方形を成《な》せり。緩《ゆる》く波打てる髪を左の小鬢《こびん》より一文字に撫付《なでつ》けて、少しは油を塗りたり。濃《こ》からぬ口髭《くちひげ》を生《はや》して、小《ちひさ》からぬ鼻に金縁《きんぶち》の目鏡《めがね》を挾《はさ》み、五紋《いつつもん》の黒塩瀬《くろしほぜ》の羽織に華紋織《かもんおり》の小袖《こそで》を裾長《すそなが》に着做《きな》したるが、六寸の七糸帯《しちんおび》に金鏈子《きんぐさり》を垂れつつ、大様《おほやう》に面《おもて》を挙げて座中を※[#「※」は「目+旬」、12−8]《みまは》したる容《かたち》は、実《げ》に光を発《はな》つらんやうに四辺《あたり》を払ひて見えぬ。この団欒《まどゐ》の中に彼の如く色白く、身奇麗に、しかも美々《びび》しく装《よそほ》ひたるはあらざるなり。
「何だ、あれは?」
 例の二人の一個《ひとり》はさも憎さげに呟《つぶや》けり。
「可厭《いや》な奴!」
 唾《つば》吐くやうに言ひて学生はわざと面《おもて》を背《そむ》けつ。
「お俊《しゆん》や、一寸《ちよいと》」と内儀は群集《くんじゆ》の中よりその娘を手招きぬ。
 お俊は両親の紳士を伴へるを見るより、慌忙《あわただし》く起ちて来《きた》れるが、顔好くはあらねど愛嬌《あいきよう》深く、いと善く父に肖《に》たり。高島田
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