波織《ふはおり》の蔽膝《ひざかけ》して、提灯《ちようちん》の徽章《しるし》はTの花文字を二個《ふたつ》組合せたるなり。行き行きて車はこの小路の尽頭《はづれ》を北に折れ、稍《やや》広き街《とほり》に出《い》でしを、僅《わづか》に走りて又西に入《い》り、その南側の半程《なかほど》に箕輪《みのわ》と記《しる》したる軒燈《のきラムプ》を掲げて、※[#「※」は「炎+りっとう」、9−2]竹《そぎだけ》を飾れる門構《もんがまへ》の内に挽入《ひきい》れたり。玄関の障子に燈影《ひかげ》の映《さ》しながら、格子《こうし》は鎖固《さしかた》めたるを、車夫は打叩《うちたた》きて、
「頼む、頼む」
 奥の方《かた》なる響動《どよみ》の劇《はげし》きに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せて訪《おとな》ひつつ、格子戸を連打《つづけうち》にすれば、やがて急足《いそぎあし》の音立てて人は出《い》で来《き》ぬ。
 円髷《まるわげ》に結ひたる四十ばかりの小《ちひさ》く痩《や》せて色白き女の、茶微塵《ちやみじん》の糸織の小袖《こそで》に黒の奉書紬《ほうしよつむぎ》の紋付の羽織着たるは、この家の内儀《ないぎ》なるべし。彼の忙《せは》しげに格子を啓《あく》るを待ちて、紳士は優然と内に入《い》らんとせしが、土間の一面に充満《みちみち》たる履物《はきもの》の杖《つゑ》を立つべき地さへあらざるに遅《ためら》へるを、彼は虚《すか》さず勤篤《まめやか》に下立《おりた》ちて、この敬ふべき賓《まらうど》の為に辛《から》くも一条の道を開けり。かくて紳士の脱捨てし駒下駄《こまげた》のみは独《ひと》り障子の内に取入れられたり。

     (一) の 二

 箕輪《みのわ》の奥は十畳の客間と八畳の中の間《ま》とを打抜きて、広間の十個処《じつかしよ》に真鍮《しんちゆう》の燭台《しよくだい》を据ゑ、五十|目掛《めかけ》の蝋燭《ろうそく》は沖の漁火《いさりび》の如く燃えたるに、間毎《まごと》の天井に白銅鍍《ニッケルめつき》の空気ラムプを点《とも》したれば、四辺《あたり》は真昼より明《あきらか》に、人顔も眩《まばゆ》きまでに耀《かがや》き遍《わた》れり。三十人に余んぬる若き男女《なんによ》は二分《ふたわかれ》に輪作りて、今を盛《さかり》と歌留多遊《かるたあそび》を為《す》るなりけり。蝋燭の焔《ほのほ》と炭火の熱と多人数《たにんず》の熱蒸《いきれ》と混じたる一種の温気《うんき》は殆《ほとん》ど凝りて動かざる一間の内を、莨《たばこ》の煙《けふり》と燈火《ともしび》の油煙とは更《たがひ》に縺《もつ》れて渦巻きつつ立迷へり。込合へる人々の面《おもて》は皆赤うなりて、白粉《おしろい》の薄剥《うすは》げたるあり、髪の解《ほつ》れたるあり、衣《きぬ》の乱次《しどな》く着頽《きくづ》れたるあり。女は粧《よそほ》ひ飾りたれば、取乱したるが特《こと》に著るく見ゆるなり。男はシャツの腋《わき》の裂けたるも知らで胴衣《ちよつき》ばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をば四《よつ》まで紙にて結《ゆ》ひたるもあり。さしも息苦き温気《うんき》も、咽《むせ》ばさるる煙《けふり》の渦も、皆狂して知らざる如く、寧《むし》ろ喜びて罵《ののし》り喚《わめ》く声、笑頽《わらひくづ》るる声、捩合《ねぢあ》ひ、踏破《ふみしだ》く犇《ひしめ》き、一斉に揚ぐる響動《どよみ》など、絶間無き騒動の中《うち》に狼藉《ろうぜき》として戯《たはむ》れ遊ぶ為体《ていたらく》は三綱五常《さんこうごじよう》も糸瓜《へちま》の皮と地に塗《まび》れて、唯《ただ》これ修羅道《しゆらどう》を打覆《ぶつくりかへ》したるばかりなり。
 海上風波の難に遭《あ》へる時、若干《そくばく》の油を取りて航路に澆《そそ》げば、浪《なみ》は奇《くし》くも忽《たちま》ち鎮《しづま》りて、船は九死を出《い》づべしとよ。今この如何《いかに》とも為《す》べからざる乱脈の座中をば、その油の勢力をもて支配せる女王《によおう》あり。猛《たけ》びに猛ぶ男たちの心もその人の前には和《やはら》ぎて、終《つひ》に崇拝せざるはあらず。女たちは皆|猜《そね》みつつも畏《おそれ》を懐《いだ》けり。中の間なる団欒《まどゐ》の柱側《はしらわき》に座を占めて、重《おも》げに戴《いただ》ける夜会結《やかいむすび》に淡紫《うすむらさき》のリボン飾《かざり》して、小豆鼠《あづきねずみ》の縮緬《ちりめん》の羽織を着たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目を※[#「※」は「目+登」、10−13]《みは》りて、躬《みづから》は淑《しとや》かに引繕《ひきつくろ》へる娘あり。粧飾《つくり》より相貌《かほだち》まで水際立《みづぎはた》ちて、凡《ただ》ならず媚《こび》を含めるは、色を売るものの仮
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