ろ》ぐとともに、この文殻《ふみがら》の埓無《らちな》き様を見て、やや慌《あわ》てたりげに左肩《ひだりがた》より垂れたるを取りて二つに引裂きつ。さてその一片《ひとひら》を手繰《たぐ》らんと為るに、長きこと帯の如し。好き程に裂きては累《かさ》ね、累ぬれば、皆積みて一冊にも成りぬべし。
 かかる間《ま》も彼は自《おのづ》と思に沈みて、その動す手も怠《たゆ》く、裂きては一々読むかとも目を凝《こら》しつつ。やや有りて裂了《さきをは》りし後は、あだかも劇《はげし》き力作に労《つか》れたらんやうに、弱々《よわよわ》と身を支へて、長き頂《うなじ》を垂れたり。
 されど久《ひさし》きに勝《た》へずやありけん、卒《にはか》に起たんとして、かの文殻の委《お》きたるを取上げ、庭の日陰に歩出《あゆみい》でて、一歩に一《ひと》たび裂き、二歩に二たび裂き、木間に入りては裂き、花壇を繞《めぐ》りては裂き、留りては裂き、行きては裂き、裂きて裂きて寸々《すんずん》に作《な》しけるを、又|引捩《ひきねぢ》りては歩み、歩みては引捩りしが、はや行くも苦《くるし》く、後様《うしろさま》に唯有《とあ》る冬青《もち》の樹に寄添へり。
 折から縁に出来《いできた》れる若き女は、結立《ゆひたて》の円髷《まるわげ》涼しげに、襷掛《たすきがけ》の惜くも見ゆる真白の濡手《ぬれて》を弾《はじ》きつつ、座敷を覗《のぞ》き、庭を窺《うかが》ひ、人見付けたる会釈の笑《ゑみ》をつと浮べて、
「旦那《だんな》様、お風呂が沸きましたが」
 この姿好く、心信《こころまめや》かなるお静こそ、僅《わづか》にも貫一がこの頃を慰むる一《いつ》の唯一《ただいつ》の者なりけれ。

     (二) の 二

 浴《ゆあみ》すれば、下立《おりた》ちて垢《あか》を流し、出づるを待ちて浴衣《ゆかた》を着せ、鏡を据《すう》るまで、お静は等閑《なほざり》ならず手一つに扱ひて、数ならぬ女業《をんなわざ》の効無《かひな》くも、身に称《かな》はん程は貫一が為にと、明暮を唯それのみに委《ゆだ》ぬるなり。されども、彼は別に奥の一間《ひとま》に己《おのれ》の助くべき狭山《さやま》あるをも忘るべからず。そは命にも、換ふる人なり。又されども、彼と我との命に換ふる大恩をここの主《あるじ》にも負へるなり。如此《かくのごと》く孰《いづ》れ疎《おろそか》ならぬ主《あるじ》と夫とを同時に有《も》てる忙《せは》しさは、盆と正月との併《あは》せ来にけんやうなるべきをも、彼はなほ未《いま》だ覚めやらぬ夢の中《うち》にて、その夢心地には、如何《いか》なる事も難《かた》しと為るに足らずと思へるならん。寔《まこと》に彼はさも思へらんやうに勇《いさ》み、喜び、誇り、楽める色あり。彼の面《おもて》は為に謂《い》ふばかり無く輝ける程に、常にも愈《ま》して妖艶《あでやか》に見えぬ。
 暫《しば》し浴後《ゆあがり》を涼みゐる貫一の側に、お静は習々《そよそよ》と団扇《うちは》の風を送りゐたりしが、縁柱《えんばしら》に靠《もた》れて、物をも言はず労《つか》れたる彼の気色を左瞻右視《とみかうみ》て、
「貴方《あなた》、大変にお顔色《かほつき》がお悪いぢや御座いませんか」
 貫一はこの言《ことば》に力をも得たらんやうに、萎《な》え頽《くづ》れたる身を始て揺《ゆす》りつ。
「さうかね」
「あら、さうかねぢや御座いませんよ、どうあそばしたのです」
「別にどうも為はせんけれど、何だかかう気が閉ぢて、惺然《はつきり》せんねえ」
「惺然《はつきり》あそばせよ。麦酒《ビイル》でも召上りませんか、ねえ、さうなさいまし」
「麦酒かい、余り飲みたくもないね」
「貴方そんな事を有仰《おつしや》らずに、まあ召上つて御覧なさいまし。折角|私《わたくし》が冷《ひや》して置きましたのですから」
「それは狭山君が帰つて来て飲むのだらう」
「何で御座いますつて?!」
「いや、常談ぢやない、さうなのだらう」
「狭山は、貴方、麦酒《ビイル》なんぞを戴《いただ》ける今の身分ぢや御座いませんです」
「そんなに堅く為《せ》んでも可いさ、内の人ぢやないか。もつと気楽に居てくれなくては困る」
 お静は些《ちよ》と涙含《なみだぐ》みし目を拭《ぬぐ》ひて、
「この上の気楽が有つて耐《たま》るものぢや御座いません」
「けれども有物《あるもの》だから、所好《すき》なら飲んでもらはう。お前さんも克《い》くのだらう」
「はあ、私もお相手を致しますから、一盃《いつぱい》召上りましよ。氷を取りに遣りまして――夏蜜柑《なつみかん》でも剥《む》きませう――林檎《りんご》も御座いますよ」
「お前さん飲まんか」
「私も戴きますとも」
「いや、お前さん独《ひとり》で」
「貴方の前で私が独で戴くので御座いますか。さうして貴方は?」
「私は飲まん」

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