縁ぢやなし、私だつてこれでも随分|謂《い》ふに謂《いは》れない苦労を為てゐるんぢやありませんか。それを貴方がさもさも迷惑さうに、何ぞの端《はし》には悪縁だ悪縁だとお言ひなさるけれど、聞《きか》される身に成つて御覧なさいな。余《あんま》り好《い》い心持は為やしません。それも不断ならともかくもですさ、この場になつてまでも、さう云ふ事を言ふのは、貴方の心が水臭いからだ――何がさうでない事が有るもんですか」
「悪縁だから悪縁だと言ふのぢやないか。何も迷惑して……」
「悪縁でも可ござんすよ!」
 彼等は相背《あひそむ》きて姑《しばら》く語無《ことばな》かりしが、女は忍びやかに泣きゐたり。
「おい、お静、おい」
「貴方きつと迷惑なんでせう。貴方がそんな気ぢや、私は……実に……つまらない。私はどうせう。情無い!」
 お静は竟《つひ》に顔を掩《おほ》うて泣きぬ。
「何だな、お前も考へて見るが可いぢやないか。それを迷惑とも何とも思はないからこそ、世間を狭くするやうな間《なか》にも成りさ、又かう云ふ……なあ……訳なのぢやないか。それを嘘《うそ》にも水臭いなんて言《いは》れりや、俺だつて悔《くやし》いだらうぢやないか。余り悔くて俺は涙が出た。お静、俺は何も芸人ぢやなし、お前に勤めてゐるんぢやないのだから、さう思つてゐてくれ」
「狭山《さやま》さん、貴方もそんなに言はなくたつて可いぢやありませんか」
「お前が言出すからよ」
「だつて貴方がかう云ふ場になつて迷惑さうな事を言ふから、私は情無くなつて、どうしたら可からうと思つたんでさね。ぢや私が悪かつたんだから謝《あやま》ります。ねえ、狭山さん、些《ちよい》と」
 お静の顔を打矚《うちまも》りつつ、男は茫然《ぼうぜん》たるのみなり。
「狭山さんてば、貴方何を考へてゐるのね」
「知れた事さ、彼我《ふたり》の身の上をよ」
「何だつてそんな事を考へてゐるの」
「…………」
「今更何も考へる事は有りはしないわ」
 狭山は徐々《おもむろ》に目を転《うつ》して、太息《といき》を※[#「※」は「口+句」、423−16]《つ》いたり。
「もうそんな溜息《ためいき》なんぞを※[#「※」は「口+句」]くのはお舎《よ》しなさいつてば」
「お前二十……二だつたね」
「それがどうしたの、貴方が二十八さ」
「あの時はお前が十九の夏だつけかな」
「ああ、さう、何でも袷《あはせ》を着てゐたから、丁度今時分でした。湖月《こげつ》さんのあの池に好いお月が映《さ》してゐて、暖《あつたか》い晩で、貴方と一処に涼みに出たんですよ、善く覚えてゐる。あれが十九、二十、二十一、二十二と、全《まる》三年に成るのね」
「おお、さうさう。昨日《きのふ》のやうに思つてゐたが、もう三年に成るなあ」
「何だか、かう全で夢のやうね」
「吁《ああ》、夢だなあ!」
「夢ねえ!」
「お静!」
「狭山さん!」
 両箇《ふたり》は手を把《と》り、膝《ひざ》を重ねて、同じ思を猶悲《なおかなし》く、
「ゆ……ゆ……夢だ!」
「夢だわ、ねえ!」
 声立てじと男の胸に泣附く女。
「かう成るのも皆《みんな》約束事ぢやあらうけれど、那奴《あいつ》さへ居なかつたら、貴方だつて余計な苦労は為はしまいし。私は私で、ああもかうも思つて、末始終の事も大概考へて置いたのだから、もう少しの間時節が来るのを待つてゐられりや、曩日《いつか》の御神籤通《おみくじどほり》な事に成れるのは、もう目に見えてゐるのを、那奴《あいつ》が邪魔して、横紙《よこがみ》を裂くやうな事を為やがるばかりに大事に為なけりや成らない貴方の体に、取つて返しの付かない傷まで附けさせて、私は、狭山さん、余《あんま》り申訳が無い! 堪《かん》……忍《にん》……して下さい」
「そりやなあに、お互の事だ」
「いいえ、私がもう少し意気地が有つたら、かうでもないんだらうけれど、胸には色々在つても、それが思切つて出来ない性分だもんだから、ついこんな破滅《はめ》にも成つて了つて、私は実に済まないと、自分の身を考へるよりは、貴方の事が先に立つて、さぞ陰ぢや迷惑もしてお在《いで》なんだらうに、逢ふ度《たんび》に私の身を案じて、毎《いつ》も優くして下さるのは仇《あだ》や疎《おろか》な事ぢやないと、私は嬉《うれし》いより難有《ありがた》いと思つてゐます。だものだから、近頃ぢや、貴方に逢ふと直《ぢき》に涙が出て、何だか悲くばかりなるのが不思議だと思つてゐたら、果然《やつぱり》かう云ふ事になる讖《しらせ》だつたんでせう。
 貴方にはお気の毒だ、お気の毒だ、と始終自分が退《ひ》けてゐるのに、悪縁だなんぞと言れると、私は体が縮るやうな心持がして、ああ、さうでもない、貴方が迷惑してゐるばかりなら未だ可いけれど、取んだ者に懸り合つた、ともしや後悔してお在《いで》なんぢやな
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