。一《ひとた》び罪を犯しても、かうして悔悟して自殺を為たのは、実に見上げた精神だ。さうなけりや成らん、天晴《あつぱれ》だぞ。それでこそ始て人間たるの面目《めんもく》が立つのだ。
然るに、この貫一はどうか! 一端《いつぱし》男と生れながら、高が一婦《いつぷ》の愛を失つたが為に、志を挫《くぢ》いて一生を誤り、餓鬼《がき》の如き振舞《ふるまひ》を為て恥とも思はず、非道を働いて暴利を貪《むさぼ》るの外は何も知らん。その財《かね》は何に成るのか、何の為にそんな事を為るのか。
凡《およ》そ人と謂《い》ふ者には、人として必ず尽すべき道が有る。己《おのれ》と云ふ者の外に人の道と云ふ者が有るのだ。俺はその道を尽してゐるか、尽さうと為てゐるか、思つた女と添ふ事が出来ん。唯それだけの事に失望して了つて、その失望の為に、苟《いやし》くも男と生れた一生を抛《なげう》たうと云ふのだ。人たるの効《かひ》は何処《どこ》に在る、人たる道はどうしたのか。
噫《ああ》、誤つた!
宮、貴様が俺に対して悔悟するならば、俺は人たるの道に対して悔悟しなけりや済まん躯《からだ》だ。貴様がかうして立派に悔悟したのを見て、俺は実に愧入《はぢい》りも為《す》りや、可羨《うらやまし》くもある。当初《はじめ》貴様に棄てられた為に、かう云ふ堕落をした貫一ならば、貴様の悔悟と共に俺も速《すみや》かに心を悛《あらた》めて、人たるの道に負ふところのこの罪を贖《つぐな》はなけりや成らん訳だ。
嗟乎《ああ》、然し、何に就《つ》けても苦《くるし》い世の中だ!
人間の道は道、義務は義務、楽《たのしみ》は又楽で、それも無けりや立たん。俺も鴫沢《しぎさわ》に居て宮を対手《あいて》に勉強してをつた時分は、この人世と云ふ者は唯面白い夢のやうに考へてゐた。
あれが浮世なのか、これが浮世なのか。
爾来《あれから》、今日《こんにち》までの六年間、人らしい思を為た日は唯の一日でも無かつた。それで何が頼《たのみ》で俺は活きてゐたのか。死を決する勇気が無いので活きてゐたやうなものだ! 活きてゐたのではない、死損《しにぞくな》つてゐたのだ!!
鰐淵《わにぶち》は焚死《やけし》に、宮は自殺した、俺はどう為《す》るのか。俺のこの感情の強いのでは、又|向来《これから》宮のこの死顔が始終目に着いて、一生悲い思を為なければ成らんのだらう。して見りや、今までよりは一層|苦《くるしみ》を受けるのは知れてゐる。その中で俺は活きてゐて何を為るのか。
人たるの道を尽す? 人たるの行《おこなひ》を為る? ああ、※[#「※」は「勞/心」、398−13]《うるさ》い、※[#「※」は「勞/心」]い! 人としてをればこそそんな義務も有る、人でなくさへあれば、何も要らんのだ。自殺して命を捨てるのは、一《いつ》の罪悪だと謂《い》ふ。或《あるひ》は罪悪かも知れん。けれども、茫々然《ぼうぼうぜん》と呼吸してゐるばかりで、世間に対しては何等《なにら》の益するところも無く、自身に取つてはそれが苦痛であるとしたら、自殺も一種の身始末《みじまつ》だ。増《ま》して、俺が今死ねば、忽《たちま》ち何十人の人が助り、何百人の人が懽《よろこ》ぶか知れん。
俺も一箇《ひとり》の女|故《ゆゑ》に身を誤つたその余《あと》が、盗人《ぬすと》家業の高利貸とまで堕落してこれでやみやみ死んで了ふのは、余り無念とは思ふけれど、当初《はじめ》に出損《でそくな》つたのが一生の不覚、あれが抑《そもそ》も不運の貫一の躯《からだ》は、もう一遍|鍛直《きたへなほ》して出て来るより外《ほか》為方が無い。この世の無念はその時|霽《はら》す!」
さしも遣る方無く悲《かなし》めりし貫一は、その悲を立《たちどこ》ろに抜くべき術《すべ》を今覚れり。看々《みるみる》涙の頬《ほほ》の乾《かわ》ける辺《あたり》に、異《あやし》く昂《あが》れる気有《きあ》りて青く耀《かがや》きぬ。
「宮、待つてゐろ、俺も死ぬぞ! 貴様の死んでくれたのが余り嬉いから、さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世《らいせ》で二人が夫婦に成る、これが結納《ゆひのう》だと思つて、幾久《いくひさし》く受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しも無いぞ」
さらば往きて汝《なんぢ》の陥りし淵《ふち》に沈まん。沈まば諸共《もろとも》と、彼は宮が屍《かばね》を引起して背《うしろ》に負へば、その軽《かろ》きこと一片《ひとひら》の紙に等《ひと》し。怪《あや》しと見返れば、更に怪し! 芳芬《ほうふん》鼻を撲《う》ちて、一朶《いちだ》の白百合《しろゆり》大《おほい》さ人面《じんめん》の若《ごと》きが、満開の葩《はなびら》を垂れて肩に懸《かか》れり。
不思議に愕《おどろ》くと為れば目覚《めさ》めぬ。覚むれば暁の夢なり。
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