《とど》めんの一念より他《た》あらぬ貫一なれば、かくと見るより心も空に、足は地を踏む遑《いとま》もあらず、唯遅れじと思ふばかりよ、壑間《たにま》の嵐《あらし》の誘ふに委《まか》せて、驀直《ましぐら》に身を堕《おと》せり。
 或《あるひ》は摧《くだ》けて死ぬべかりしを、恙無《つつがな》きこそ天の佑《たすけ》と、彼は数歩の内に宮を追ひしが、流に浸《ひた》れる巌《いはほ》を渉《わた》りて、既に渦巻く滝津瀬《たきつせ》に生憎《あやにく》! 花は散りかかるを、
「宮!」
 と後《うしろ》に呼ぶ声残りて、前には人の影も在らず。
 咄嗟《とつさ》の遅《おくれ》を天に叫び、地に号《わめ》き、流に悶《もだ》え、巌に狂へる貫一は、血走る眼《まなこ》に水を射て、此処《ここ》や彼処《かしこ》と恋《こひし》き水屑《みくづ》を覓《もと》むれば、正《まさし》く浮木芥《うきぎあくた》の類とも見えざる物の、十間《じつけん》ばかり彼方《あなた》を揉みに揉んで、波間隠《なみまがくれ》に推流《おしなが》さるるは、人ならず哉《や》、宮なるかと瞳《ひとみ》を定むる折しもあれ、水勢|其処《そこ》に一段急なり、在りける影は弦《つる》を放れし箭飛《やとび》を作《な》して、行方《ゆくへ》も知らずと胸潰《むねつぶ》るれば、忽《たちま》ち遠く浮き出でたり。
 嬉しやと貫一は、道無き道の木を攀《よ》ぢ、崖《がけ》を伝ひ、或《あるひ》は下りて水を踰《こ》え、石を躡《ふ》み、巌を廻《めぐ》り、心地死ぬべく踉蹌《ろうそう》として近《ちかづ》き見れば、緑樹《りよくじゆ》蔭愁《かげうれ》ひ、潺湲《せんかん》声咽《こゑむせ》びて、浅瀬に繋《かか》れる宮が骸《むくろ》よ!
 貫一は唯その上に泣伏したり。
 吁《ああ》、宮は生前に於《おい》て纔《わづか》に一刻の前《さき》なる生前に於て、この情《なさけ》の熱き一滴を幾許《いかばかり》かは忝《かたじけ》なみけん。今や千行垂《せんこうた》るといへども効無《かひな》き涙は、徒《いたづら》に無心の死顔に濺《そそ》ぎて宮の魂《こん》は知らざるなり。
 貫一の悲《かなしみ》は窮《きはま》りぬ。
「宮、貴様は死……死……死んだのか。自殺を為るさへ可哀《あはれ》なのに、この浅ましい姿はどうだ。
 刃《やいば》に貫き、水に溺《おぼ》れ、貴様はこれで苦くはなかつたか。可愛《かはい》い奴め、思迫《おもひつ》めたなあ!
 宮、貴様は自殺を為た上身を投げたのは、一つの死では慊《あきた》らずに、二つ命を捨てた気か。さう思つて俺は不敏《ふびん》だ!
 どんな事が有らうとも、貴様に対するあの恨は決して忘れんと誓つたのだ。誓つたけれども、この無残な死状《しにざま》を見ては、罪も恨《うらみ》も皆消えた! 赦したぞ、宮! 俺《おれ》は心の底から赦したぞ!
 今はの際《きは》に赦したと、俺が一言《ひとこと》云つたらば、あの苦い息の下から嬉いと言つたが、宮、貴様は俺に赦されるのがそんなに嬉いのか。好く後悔した! 立派な悔悟だぞ!!
 余り立派で、貫一は恥入つた! 宮、俺は面目《めんもく》無い! これまでの精神とは知らずに見殺《みごろし》に為たのは残念だつた! 俺が過《あやまり》だ! 宮、赦してくれよ! 可《い》いか、宮、可いか。
 嗚呼《ああ》死んで了ったのだ!!!」
 貫一は彼の死の余りに酷《むご》く、余りに潔きを見て、不貞の血は既に尽《ことごと》く沃《そそ》がれ、旧悪の膚《はだへ》は全く洗れて、残れる者は、悔の為に、誠の為に、己《おのれ》の為に捨てたる亡骸《なきがら》の、実《げ》に憐《あはれ》みても憐むべく、悲みても猶《なほ》及ばざる思の、今は唯|極《きは》めて切なる有るのみ。
 かの烈々《れつれつ》たる怨念《おんねん》の跡無く消ゆるとともに、一旦|涸《か》れにし愛慕の情は又泉の涌《わ》くらんやうに起りて、その胸に漲《みなぎ》りぬ。苦からず哉《や》、人|亡《な》き後の愛慕は、何の思かこれに似る者あらん。彼はなかなか生ける人にこそ如何《いか》なる恨をも繋《か》くるの忍び易《やす》きを今ぞ知るなる。
 貫一は腸断《ちようた》ち涙連《なみだつらな》りて、我を我とも覚ゆる能はず。
「宮、貴様に手向《たむ》けるのは、俺のこの胸の中《うち》だ。これで成仏してくれ、よ。この世の事はこれまでだ、その代り今度の世には、貴様の言つた通り、必ず夫婦に成つて、百歳《ひやく》までも添《そひ》、添、添遂《そひと》げるぞ! 忘れるな、宮。俺も忘れん! 貴様もきつと覚えてゐろよ!」
 氷の如き宮が手を取り、犇《ひし》と握りて、永く眠れる面《おもて》を覗《のぞ》かんと為れば、涙急にして文色《あいろ》も分かず、推重《おしかさな》りて、怜《いと》しやと身を悶《もだ》えつつ少時《しばし》泣いたり。
「然し、宮、貴様は立派な者だ
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