こは何事と駭《おどろ》ける貫一は、身を避《さく》る暇《いとま》もあらず三つ四つ撃れしが、遂《つひ》に取つて抑へて両手を働かせじと為れば、内俯《うつぷし》に引据ゑられたる満枝は、物をも言はで彼の股《もも》の辺《あたり》に咬付《かみつ》いたり。怪《けし》からぬ女|哉《かな》、と怒《いかり》の余に手暴《てあら》く捩放《ねぢはな》せば、なほ辛《から》くも縋《すが》れるままに面《おもて》を擦付《すりつ》けて咽泣《むせびなき》に泣くなりき。
貫一は唯不思議の為体《ていたらく》に呆《あき》れ惑ひて言《ことば》も出《い》でず、漸《やうや》く泣ゐる彼を推斥《おしの》けんと為たれど、膠《にかは》の附きたるやうに取縋りつつ、益す泣いて泣いて止まず。涙の湿《うるほひ》は単衣《ひとへ》を透《とほ》して、この難面《つれな》き人の膚《はだへ》に沁《し》みぬ。
捨置かば如何《いか》に募らんも知らずと、貫一は用捨無く※[#「※」は「(夕+匕)/手」、376−12]放《もぎはな》して、起たんと為るを、彼は虚《すか》さず※[#「※」は「夕/寅」、376−12]《まつは》りて、又泣顔を擦付《すりつく》れば、怺《こら》へかねたる声を励す貫一、
「貴方は何を為るのですか! 好い加減になさい」
「…………」
「さうして早くお帰りなさい」
「帰りません!」
「帰らん? 帰らんけりや宜《よろし》い。もう明日《あす》からは貴方のここへ足蹈《あしぶみ》の出来んやうに為て了《しま》ふから、さうお思ひなさい」
「私死んでも参ります!」
「今まで我慢をしてゐたですけれど、もう抛《はふ》つて置かれんから、私は赤樫さんに会つて、貴方の事をすつかり話して了ひます」
満枝は始て涙に沾《うるほ》へる目を挙げたり。
「はあ、お話し下さい」
「…………」
「赤樫に聞えましたら、どう致すので御座います」
貫一は歯を鳴して急上《せきあ》げたり。
「貴方は……実に……驚入《おどろきい》つた根性ですな! 赤樫は貴方の何ですか」
「間さん、貴方は又赤樫を私の何だと思召してゐらつしやるのですか」
「怪《けし》からん!」
彼は憎き女の頬桁《ほほげた》をば撃つて撃つて打割《うちわ》る能《あた》はざるを憾《うらみ》と為《す》なるべし。
「定《さだめ》てあれは私の夫だと思召すので御座いませうが、決《け》してさやうでは御座いませんです」
「そんなら何《なん》ですか」
「往日《いつぞや》もお話致しましたが、金力で無理に私を奪つて、遂にこんな体にして了つた、謂はば私の讐《かたき》も同然なので。成程人は夫婦とも申しませうが私の気では何とも思つてをりは致しません。さうですから、自分の好いた方《かた》に惚《ほ》れて騒ぐ分は、一向|差支《さしつかへ》の無い独身《ひとりみ》も同じので御座います。
間さん、どうぞ赤樫にお会ひ遊ばしたら、満枝の奴が惚れてゐて為方が無いから、内の御膳炊《ごぜんたき》に貰つて遣るから、さう思へと、貴方が有仰《おつしや》つて下さいまし。私|豊《とよ》の手伝でも致して、此方《こなた》に一生奉公を致します。
貴方は大方赤樫に言ふと有仰《おつしや》つたら、震へ上つて私が怖《こは》がりでも為ると思召すのでせうが、私驚きも恐れも致しません、寧《むし》ろ勝手なのですけれど、赤樫がそれは途方に昧《く》れるで御座いませう」
貫一はほとほと答ふるところを知らず。満枝も然《しか》こそは呆《あき》れつらんと思へば、
「それは実際で御座いますの。若し話が一つ間違つて、面倒な事でも生じましたら、私が困りますよりは余程赤樫の方が困るのは知れてゐるのですから、私を遠《とほざ》けやう為に、お話をなさるのなら、徒爾《むだ》な事で御座います。赤樫は私を恐れてをりませうとも、私|些《ちよつ》ともあの人を恐れてはをりませんです。けれども、折角さう思召《おぼしめ》すものなら、物は試《ためし》で御座いますから、間さん、貴方、赤樫にお話し遊ばして御覧なさいましな。
私も貴方の事を吹聴致します。ああ云ふ主《ぬし》有る婦人と関係遊ばして、始終人目を忍んで逢引《あひびき》してゐらつしやる事を触散《ふれちら》しますから、それで何方《どちら》が余計迷惑するか、比較事《くらべつこ》を致しませう。如何《いかが》で御座います」
「男勝《をとこまさ》りの機敏な貴方にも似合はん、さすがは女だ」
「何で御座います?」
「お聞きなさい。男と女が話をしてゐれば、それが直《ただ》ちに逢引《あひびき》ですか。又|妙齢《としごろ》の女でさへあれば、必ず主有るに極《きま》つてゐるのですか。浅膚《あさはか》な邪推とは言ひながら、人を誣《し》ふるも太甚《はなはだし》い! 失敬千万な、気を着けて口をお利《き》きなさい」
「間さん、貴方、些《ちよつ》と此方《こちら》をお向きなさい
前へ
次へ
全177ページ中137ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング