》にはあらで、人の娘にもあらず、又貫一が妻と謂ふにもあらずして、深き訳ある内証者なるべし。若《も》しさもあらば、貫一はその身の境遇とともに堕落して性根《しようね》も腐れ、身持も頽《くづ》れたるを想ふべし、とかくは好みて昔の縁を繋《つな》ぐべきものにあらず。如此《かくのごと》き輩《やから》を出入《でいり》せしむる鴫沢の家は、終《つひ》に不慮の禍《わざはひ》を招くに至らんも知るべからざるを、と彼は心中|遽《にはか》に懼《おそれ》を生じて、さては彼の恨深く言《ことば》を容《い》れざるを幸《さいはひ》に、今日《こんにち》は一先《ひとまづ》立還《たちかへ》りて、尚《な》ほ一層の探索と一番の熟考とを遂《と》げて後、来《きた》る可《べ》くは再び来らんも晩《おそ》からず、と失望の裏《うち》別に幾分の得るところあるを私《ひそか》に喜べり。
「いや、これはどうも図らずお世話様に成りました。いづれ又近日改めてお目に掛りまするで、失礼ながらお名前を伺つて置きたうござりまするが」
「はい、私《わたくし》は」と紫根塩瀬《しこんしほぜ》の手提の中《うち》より小形の名刺を取出だして、
「甚《はなは》だ失礼でございますが」
「はい、これは。赤樫満枝《あかがしみつえ》さまと有仰《おつしや》いますか」
 この女の素性に於《お》ける彼の疑は益《ますます》暗くなりぬ。夫有《つまも》てる身の我は顔に名刺を用意せるも似気無《にげな》し、まして裏面《うら》に横文字を入れたるは、猶可慎《なほつつまし》からず。応対の雍《しとやか》にして人馴《ひとな》れたる、服装《みなり》などの当世風に貴族的なる、或《あるひ》は欧羅巴《ヨウロッパ》的女子職業に自営せる人などならずや。但しその余《あまり》に色美《いろよ》きが、又さる際《きは》には相応《ふさはし》からずも覚えて、こは終《つひ》に一題の麗《うるはし》き謎《なぞ》を彼に与ふるに過ぎざりき。鴫沢の翁は貫一の冷遇《ぶあしらひ》に慍《いきどほ》るをも忘れて、この謎《なぞ》の為に苦められつつ病院を辞し去れり。
 客を送り出でて満枝の内に入来《いりきた》れば、ベッドの上に貫一の居丈高《ゐたけだか》に起直りて、痩尽《やせすが》れたる拳《こぶし》を握りつつ、咄々《とつとつ》、言はで忍びし無念に堪へずして、独《ひと》り疾視《しつし》の瞳《ひとみ》を凝《こら》すに会へり。

     第 六 章

 数日前《すじつぜん》より鰐淵《わにぶち》が家は燈点《あかしとも》る頃を期して、何処《いづこ》より来るとも知らぬ一人の老女《ろうによ》に訪《とは》るるが例となりぬ。その人は齢《よはひ》六十路《むそぢ》余に傾《かたふ》きて、顔は皺《しわ》みたれど膚清《はだへきよ》く、切髪《きりがみ》の容《かたち》などなかなか由《よし》ありげにて、風俗も見苦からず、唯《ただ》異様なるは茶微塵《ちやみじん》の御召縮緬《おめしちりめん》の被風《ひふ》をも着ながら、更紗《さらさ》の小風呂敷包に油紙の上掛《うはがけ》したるを矢筈《やはず》に負ひて、薄穢《うすきたな》き護謨底《ゴムぞこ》の運動靴を履《は》いたり。
 所用は折入つて主《あるじ》に会ひたしとなり。生憎《あいにく》にも来る度《たび》他出中なりけれど、本意無《ほいな》げにも見えで急ぎ帰り、飽きもせずして通ひ来るなりけり。お峯は漸《やうや》く怪しと思初《おもひそ》めぬ。
 彼のあだかも三日続けて来《きた》れる日、その挙動の常ならず、殊《こと》には眼色凄《まなざしすご》く、憚《はばかり》も無く人を目戍《まも》りては、時ならぬに独《ひと》り打笑《うちゑ》む顔の坐寒《すずろさむ》きまでに可恐《おそろし》きは、狂人なるべし、しかも夜に入《い》るを候《うかが》ひ、時をも差《たが》へず訪《おとな》ひ来るなど、我家に祟《たたり》を作《な》すにはあらずや、とお峯は遽《にはか》に懼《おそれ》を抱《いだ》きて、とても一度は会ひて、又と足踏せざらんやう、ひたすら直行にその始末を頼みければ、今日は用意して、四時頃にはや還《かへ》り来にけるなり。
「どうも貴方《あなた》、あれは気違ですよ。それでも品の良《い》いことは、些《ちよい》とまあ旗本か何かの隠居さんと謂《い》つたやうな、然し一体、鼻の高い、目の大きい、痩《や》せた面長《おもなが》な、怖《こは》い顔なんですね。戸外《おもて》へ来て案内する時のその声といふものが、実に無いんですよ。毎《いつ》でも極《きま》つて、『頼みます、はい頼みます』とかう雍《しとやか》に、緩《ゆつく》り二声言ふんで。もうもうその声を聞くと悚然《ぞつ》として、ああ可厭《いや》だ。何だつて又あんな気違なんぞが来出したんでせう。本当に縁起でもない!」
 お峯は柱なる時計を仰ぎぬ。燈《あかし》の点《とも》るには未だ間ありと見るなるべし。直行は
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