に縋《すが》りて遂《つひ》に放さざりければ、宮はその身一つさへ危《あやふ》きに、やうやう扶《たす》けて書斎に入《い》りぬ。
 ※[#「※」は「ころもへん+因」、29−7]《しとね》の上に舁下《かきおろ》されし貫一は頽《くづ》るる体《たい》を机に支へて、打仰《うちあふ》ぎつつ微吟せり。
「君に勧む、金縷《きんる》の衣《ころも》を惜むなかれ。君に勧む、須《すべから》く少年の時を惜むべし。花有り折るに堪《た》へなば直《ただち》に折る須《べ》し。花無きを待つて空《むなし》く枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」
「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、宮《みい》さん、非常に酔つてゐるでせう」
「酔つてゐるわ。苦《くるし》いでせう」
「然矣《しかり》、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるに就《つ》いては大《おほ》いに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」
「可厭《いや》よ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断|嫌《きら》ひの癖に何故《なぜ》そんなに飲んだの。誰に飲《のま》されたの。端山《はやま》さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、酷《ひど》いわね、こんなに酔《よは》して。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ」
「本当に待つてゐてくれたのかい、宮《みい》さん。謝《しや》、多謝《たしや》! 若《もし》それが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」
 彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く握緊《にぎりし》めつ。
「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決して喋《しやべ》る男ぢやない。それがどうして知れたのか、衆《みんな》が知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から祝盃《しゆくはい》だ祝盃だと、十も二十も一度に猪口《ちよく》を差されたのだ。祝盃などを受ける覚《おぼえ》は無いと言つて、手を引籠《ひつこ》めてゐたけれど、なかなか衆《みんな》聴かないぢやないか」
 宮は窃《ひそか》に笑《ゑみ》を帯びて余念なく聴きゐたり。
「それぢや祝盃の主意を変へて、仮初《かりそめ》にもああ云ふ美人と一所《いつしよ》に居て寝食を倶《とも》にすると云ふのが既に可羨《うらやまし》い。そこを祝すのだ。次には、君も男児《をとこ》なら、更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人に奪《と》られるやうな事があつたら、独《ひと》り間貫一|一《いつ》個人の恥辱ばかりではない、我々|朋友《ほうゆう》全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、延《ひ》いて高等中学の名折《なをれ》にもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心を一《いつ》にして結《むすぶ》の神に祷《いの》つた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたら却《かへ》つて神罰が有ると、弄謔《からかひ》とは知れてゐるけれど、言草《いひぐさ》が面白かつたから、片端《かたつぱし》から引受けて呷々《ぐひぐひ》遣付《やつつ》けた。
 宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分|宜《よろし》く願ひます」
「可厭《いや》よ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、弥《いよい》よ僕の男が立たない義《わけ》だ」
「もう極《きま》つてゐるものを、今更……」
「さうでないです。この頃|翁《をぢ》さんや姨《をば》さんの様子を見るのに、どうも僕は……」
「そんな事は決《け》して無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの了簡《りようけん》はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢや余《あんま》りだわ」
 貫一は酔《ゑひ》を支へかねて宮が膝《ひざ》を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き頬《ほほ》に、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又|寐《ね》ちや……貫一さん、貫一さん」
 寔《まこと》に愛の潔《いさぎよ》き哉《かな》、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望《のぞみ》は跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に鍾《あつ》めて、富も貴きも、乃至《ないし》有《あら》ゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に溶《とろか》されて、彼は唯妙《ただたへ》に香《かうばし》き甘露《かんろ》の夢に酔《ゑ》ひて前後をも知らざるなりけり。
 諸《もろもろ》の可忌《いまはし》き妄想《もうぞう》はこの夜の如く眼《まなこ》を閉ぢて、この一間《ひとま》に彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この明《あきらか》なる燈火《ともしび》の光の如きものありて、
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