「ぢや見てゐらつしやるのですか。不好《いや》ですよ、馬鹿々々しい! まあ何でも可いから、ともかくも一盃召上ると成さいましよ、ね。唯今《ただいま》直《ぢき》に持つて参りますから、其処《そこ》にゐらつしやいまし」
気軽に走り行きしが、程無く老婢《ろうひ》と共に齎《もたら》せる品々を、見好げに献立して彼の前に陳《なら》ぶれば、さすがに他の老婆子《ろうばし》が寂《さびし》き給仕に義務的|吃飯《きつぱん》を強《し》ひらるるの比にもあらず、やや難捨《すてがた》き心地もして、コップを取挙《とりあぐ》れば、お静は慣れし手元に噴溢《ふきこぼ》るるばかり酌して、
「さあ、呷《ぐう》とそれを召上れ」
貫一はその半《なかば》を尽して、先《ま》づ息《いこ》へり。林檎を剥《む》きゐるお静は、手早く二片《ふたひら》ばかり※[#「※」は「炎+りっとう」、471−2]《そ》ぎて、
「はい、お肴《さかな》を」
「まあ、一盃上げやう」
「まあ、貴方――いいえ、可けませんよ。些《ちつ》とお顔に出るまで二三盃続けて召上れよ。さうすると幾らかお気が霽《は》れますから」
「そんなに飲んだら倒れて了ふ」
「お倒れなすたつて宜《よろし》いぢや御座いませんか。本当に今日は不好《いや》な御顔色でゐらつしやるから、それがかう消えて了ふやうに、奮発して召上りましよ」
彼は覚えず薄笑《うすわらひ》して、
「薬だつてさうは利《き》かんさ」
「どうあそばしたので御座います。何処《どこ》ぞ御体がお悪いのなら、又無理に召上るのは可う御座いませんから」
「体は始終悪いのだから、今更驚きも為んが……ぢや、もう一盃飲まうか」
「へい、お酌。ああ、余《あんま》りお見事ぢや御座いませんか」
「見事でも可かんのかい」
「いいえ、お見事は結構なのですけれど、余《あんま》り又――頂戴……ああ恐入ります」
「いや、考へて見ると、人間と云ふものは不思議な者だ。今まで不見不知《みずしらず》の、実に何の縁も無いお前さん方が、かうして内に来て、狭山君はああして実体《じつてい》の人だし、お前さんは優く世話をしてくれる、私は決して他人のやうな心持は為《せ》んね。それは如何《いか》なる事情が有つてかう成つたにも為よ、那裏《あすこ》で逢《あ》はなければ、何処《どこ》の誰だかお互に分らずに了つた者が、急に一処に成つて、貴方がどうだとか、私《わたくし》がかうだとか
前へ
次へ
全354ページ中345ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング