男の袂《たもと》を執りて泣きぬ。理切《ことわりせ》めて荒尾もその手を払ひかねつつ、吾ならぬ愁に胸塞《むねふさが》れて、実《げ》にもと覚ゆる宮が衰容《やつれすがた》に眼《まなこ》を凝《こら》しゐたり。
「荒尾さん、こんなに思つて私は悔悟してをるのぢやございませんか、昔の宮だと思召して頼《たのみ》に成つて下さいまし。どうぞ、荒尾さん、どうぞ、さあ、お誨《をし》へなすつて下さいまし」
涙に昏《く》れてその語《ことば》は能くも聞えず、階子下《はしごした》の物音は膳運《ぜんはこ》び出《い》づるなるべし。
果して人の入来《いりき》て、夕餉《ゆふげ》の設《まうけ》すとて少時《しばし》紛《まぎら》されし後、二人は謂《い》ふべからざる佗《わびし》き無言の中に相対《あひたい》するのみなりしを、荒尾は始て高く咳《しはぶ》きつ。
「貴方の言るる事は能《よ》う解つてをる、決して無理とは思はんです。如何《いか》にも貴方に誨へて上げたい、誨へて貴方の身の立つやうな処置で有るなら、誨へて上げんぢやないです。けれどもじや、それが誨へて上げられんのは、僕が貴方であつたらかう為ると云ふ考量《かんがへ》に止《とどま》るので……いや、いや、そりや言《いは》れん。言うて善い事なら言ひます、人に対して言ふべき事でない、况《いはん》や誨ふべき事ではない、止《た》だ僕一箇の了簡として肚《はら》の中に思うたまでの事、究竟《つまり》荒尾的空想に過ぎんのぢやから、空想を誨へて人を誤つてはどうもならんから、僕は何も言はんので、言はんぢやない、実際言得んのじや、然し猶能《なほよ》う考へて見て、貴方に誨へらるる方法を見出《みいだ》したら、更にお目に掛つて申上げやう。折が有つたら又お目に掛ります。は、僕の居住《すまひ》? 居住は、まあ言はん方が可い、蜑《あま》が子《こ》なれば宿も定めずじや。言うても差支《さしつかへ》は無いけれど、貴方に押掛けらるると困るから、まあ言はん。は、如何《いか》にも、こんな態《なり》をしてをるので、貴方は吃驚《びつくり》なすつたか、さうでせう。自分にも驚いてをるのぢやけれどどうも為方が無い。僕の身の上に就ては段々子細が有るですとも、それもお話したいけれど、又この次に。
酒は余り飲むな? はあ、今日のやうに酔うた事は希《まれ》です。忝《かたじけな》い、折角の御忠告ぢやから今後は宜《よろし》い、気を着
前へ
次へ
全354ページ中222ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング