多く眠らずなりてよりは、好みてこの一間に入《い》りて、深く物思ふなりけり。両親《ふたおや》は仔細《しさい》を知れるにや、この様子をば怪まんともせで、唯彼の為《な》すままに委《まか》せたり。
この日貫一は授業|始《はじめ》の式のみにて早く帰来《かへりき》にけるが、下《した》座敷には誰《たれ》も見えで、火燵《こたつ》の間に宮の咳《しはぶ》く声して、後は静に、我が帰りしを知らざるよと思ひければ、忍足に窺寄《うかがひよ》りぬ。襖《ふすま》の僅《わづか》に啓《あ》きたる隙《ひま》より差覗《さしのぞ》けば、宮は火燵に倚《よ》りて硝子《ガラス》障子を眺《なが》めては俯目《ふしめ》になり、又胸痛きやうに仰ぎては太息吐《ためいきつ》きて、忽《たちま》ち物の音を聞澄すが如く、美き目を瞠《みは》るは、何をか思凝《おもひこら》すなるべし。人の窺《うかが》ふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の苦悶《くもん》をその状《かたち》に顕《あらは》して憚《はばか》らざるなり。
貫一は異《あやし》みつつも息を潜めて、猶《なほ》彼の為《せ》んやうを見んとしたり。宮は少時《しばし》ありて火燵に入りけるが、遂《つひ》に櫓《やぐら》に打俯《うちふ》しぬ。
柱に身を倚せて、斜《ななめ》に内を窺ひつつ貫一は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて思惑《おもひまど》へり。
彼は如何《いか》なる事ありてさばかり案じ煩《わづら》ふならん。さばかり案じ煩ふべき事を如何なれば我に明さざるならん。その故《ゆゑ》のあるべく覚えざるとともに、案じ煩ふ事のあるべきをも彼は信じ得ざるなりけり。
かく又案じ煩へる彼の面《おもて》も自《おのづか》ら俯《うつむ》きぬ。問はずして知るべきにあらずと思定《おもひさだ》めて、再び内を差覗《さしのぞ》きけるに、宮は猶打俯してゐたり。何時《いつ》か落ちけむ、蒔絵《まきゑ》の櫛《くし》の零《こぼ》れたるも知らで。
人の気勢《けはひ》に驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既にその傍《かたはら》に在り。彼は慌《あわ》てて思頽《おもひくづを》るる気色《けしき》を蔽《おほ》はんとしたるが如し。
「ああ、吃驚《びつくら》した。何時《いつ》御帰んなすつて」
「今帰つたの」
「さう。些《ちつと》も知らなかつた」
宮はおのれの顔の頻《しきり》に眺めらるるを眩《まば》ゆがりて、
「何をそんなに視《み》るの、可厭《いや》、私は」
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