へぬ。かの狂女の去りも遣《やら》ざりしが捕《とらは》れしなり。
 火元と認定せらるる鰐淵方《わにぶちかた》は塵一筋《ちりひとすぢ》だに持出《もちいだ》さずして、憐《あはれ》むべき一片の焦土を遺《のこ》したるのみ。家族の消息は直《ただ》ちに警察の訊問《じんもん》するところとなりぬ。婢《をんな》は命|辛々《からがら》迯了《にげおほ》せけれども、目覚むると斉《ひとし》く頭面《まくらもと》は一面の火なるに仰天し、二声三声奥を呼捨《よびすて》にして走り出《い》でければ、主《あるじ》たちは如何《いか》になりけん、知らずと言ふ。夜明けぬれど夫婦の出で来ざりけるは、過《あやまち》など有りしにはあらずやと、警官は出張して捜索に及べり。
 熱灰《ねつかい》の下より一体の屍《かばね》の半《なかば》焦爛《こげただ》れたるが見出《みいだ》されぬ。目も当てられず、浅ましう悒《いぶせ》き限を尽したれど、主《あるじ》の妻と輙《たやす》く弁ぜらるべき面影《おもかげ》は焚残《やけのこ》れり。さてはとその邇《ちか》くを隈無《くまな》く掻起《かきおこ》しけれど、他に見当るものは無くて、倉前と覚《おぼし》き辺《あたり》より始めて焦壊《こげくづ》れたる人骨を掘出《ほりいだ》せり。酔《ゑ》ひて遁惑《にげまど》ひし故《ゆゑ》か、貪《むさぼ》りて身を忘れし故か、とにもかくにも主夫婦《あるじふうふ》はこの火の為に落命せしなり。家屋も土蔵も一夜の烟《けふり》となりて、鰐淵の跡とては赤土と灰との外に覓《もと》むべきものもあらず、風吹迷ふ長烟短焔《ちようえんたんえん》の紛糾する処に、独《ひと》り無事の形を留めたるは、主が居間に備へ付けたりし金庫のみ。
 別居せる直道《ただみち》は旅行中にて未《いま》だ還《かへ》らず、貫一はあだかもお峯の死体の出でし時病院より駈着《かけつ》けたり。彼は三日の後には退院すべき手筈《てはず》なりければ、今は全く癒《い》えて務を執るをも妨げざれど、事の極《きは》めて不慮なると、急激なると、瑣小《さしよう》ならざるとに心惑《こころまどひ》のみせられて、病後の身を以《も》てこれに当らんはいと苦《くるし》かりけるを、尽瘁《じんすい》して万端を処理しつつ、ひたすら直道の帰京を待てり。
 枕をも得挙《えあ》げざりし病人の今かく健《すこやか》に起きて、常に来ては親く慰められし人の頑《かたくな》にも強かりしを、
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