ー》が次第に濃くかぶさって来た。私はその時非常に荒廃した孤独の感慨に打たれた。
 何処からかひそひそと私に囁く声がした。その声が室の中一杯に大きく拡がってゆこうとしている。私はたまらなくなって其処を飛び出した。

 ――妙な日が続いた。私の頭から何処かへ飛び去ったものがある。そしてその後へ別なものが入って来た。それは私の知らないものなんだ。それが私を強い力で囚えてしまった。私は屹度火曜と金曜との晩にカフェーに行った。彼も屹度来た。そして私達は何時も同じものを食い、そして飲んだ。
 其処には紅茶と珈琲とココアとチョコレート、それから葡萄酒とウィスキーとベルモットとチェリー酒、それに菓子と菓物とがあるばかりだった。変化がこれだけに止ることは実にたまらないことだった。私は制限のない豊富な材料の種々を思い浮べながら、どうすることも出来なかった。
 何故? という問題は最早其処には残されていなかった。私達はそれほど自己の魂に忠実で、そして私達の魂はそれほど強く結び付いていたのだ。私達が同じものを択ぶことは只必然にそうなるんだ。そして私と彼と只じっと必然のうちに相対している。どうにも私には出来ないんだ。
 彼は私の世界を次第に食い減らしてゆく。凡てのものが私の心のうちにじっと魂の眼を見張っていた。然しそれらの眼の上に薄いベールが被ってきた。それが次第に厚くなってゆく。それに彼の引いている薄暗い影が宿ってくる。私は次第に孤独になるのを感ずる。凡てが私に背いて彼の方へ靡いてゆくのだ。私はそれをどうすることも出来ないんだ。私はどうにもならない苦悶のうちから、只彼をじっと見てやった。自分の生きた皮を一枚一枚剥いでゆく強暴な動物を見るような眼で、私は只じっと喰い入るように彼を見つめてやった。

 ――彼は其処から出てゆく時に、先ず扉を内方へ引く。そして身体を前の方へまげて屹度外面を覗くのだった。私はその姿を見る時何時も堪えられないような恐怖を感じた。
 然しある風の強い晩だった。私はそっと懐中時計を取り出した。その晩は風の音にまぎれて時計の声も彼には聞えないだろうと思ったからだ。彼はその時七秒間外をじっと窺っていた。そして真直に立ち直って大股に出て行った。
 それから度々私はその時間を測定してみた。五秒から八秒にきまっていた。私はその時間と彼の心臓の鼓動とから何かを発見しようと努力した。然し彼は殆んどその心臓の存在をさえ私に知らさなかった。
 私はなおこの五秒と八秒とについて深く信じていた。そして其処から彼の心のうちに忍び込んでやろうと思った。それを彼が察したのだ。そして私を裏切ったのだ。
 或る晩私が彼より先に其処を出ようとした時のことだ。私は勘定に女中を呼ぶために紅茶の匙で卓子をこつこつと叩いた。その時すぐに女中が返事をしなかったので、私はまたこつこつとやった。そしてまたこつこつとやった。その時彼がまたこつこつとやったのだ。それから私達は調子を揃えて卓子を叩いた。擽ったいような腹立たしいような感じが私のうちに満ちた。そして私は明瞭と彼の意志を自分のうちに見出した。それが抵抗の出来ないほど強いんだ。私は自分をがんと何かにぶっつけたくなった。それでも私はやはり彼と調子を合せて卓子をこつこつと叩く外はなかったのだ。すぐに女中が来た。彼女は先に彼の方へ行った。私は彼が澄まして勘定というのをきいた。
 その時私のうちにある狂暴な考えが突然に起った。私は彼を蹴飛してやりたくなって、すっくと立ち上った。然し私の足は其処に悚んでしまった。でも私は全力を尽して、急ぐんだから俺の方を先にしてくれと女中にどなってやった。彼は黙って私が勘定をすますまで待っていた。私は馳けるようにして其処を飛び出した。

 ――一体彼奴は音もなくそっと動いているんだ。何時も何かの隙間をじっと狙《ねら》っている。隙間から風がすーっと吹き込むように、後ろの方からこっそりとやって来る。気が付いた時はもう遅いんだ。かくて彼は何時の間にカフェーの中に自分の影を濃く蓄積してしまったのだ。そして凡てを私から奪った上、私の胸の中に忍び込んで来ようとしている。彼奴がじっと私の魂を狙っているのを私はよく知っている。
 彼も私もじっと卓子についている。私達の間は僅かに六七歩にすぎない。その間に深い沈黙が湛えている。私の魂はこの沈黙のうちに、そっと形態の扉を開いて外面を覗こうとする。その時彼がそっと私の方へ手を伸して私の魂を捕えようとするのだ。
 私ははっとして心の扉を堅く閉した。然しどうすることも出来ないんだ。私のまわりには彼の影が深く立ち罩めている。私はその中に沈湎してもがき乍ら、只じっと堅く堅く息つまるように心の扉を閉すの外はなかった。
 その時突然他の客が入って来た。
 室の中一杯にもやもやと物の乱るるけはいがした。そして私は夢から醒めたようなぽかんとした気持ちになった。彼の世界がはっと身をかわして、物影に引き込んだのである。
 知らない新らしい客は二人の洋服の男だった。彼等は呑気に中央の大きい卓子にかけて珈琲を飲んでいる。彼等は何にも知らないんだ。そして何にも見えないんだ。
 私はふっと解放された自分を見出したけれど、室の隅々から、私をじっと窺っている無数の眼をはっきりと知っていた。彼奴だ、彼奴がその中に居るんだ。二人きりの沈黙の時が来たら、今にも其処から飛び出して私を捕えようとしているんだ。四方からじっと隙を窺っているんだ。
 私はその時は堅く堅く心を閉す必要はなかったのだ。然しそれだけ不安が大きかったのだ。私はぶるぶる震え乍ら漸々そのカフェーから逃げ出すことが出来た。

 ――悶え乍らも私はやはり彼の方へぐんぐん引きつけられてゆく外はなかった。力をこめてぶつかって行こうとすれば、ふうわりと大きいものの中に彼は私を包んでしまうのだ。
 私達の何れかが何かを飲んでいる時、それを見て後から来た方が同じものを注文するのは別に不思議はないんだ。然し私は只頭の中で考えたきりじっとしていることがある。その時は屹度彼が私より先にそれを女中に云いつけるのだ。私が考えて彼がそれを先に実行するということがあっていいものだろうか? 私は泣き出しそうな顔をし乍ら、やはり私が考え彼が実行したことを、その通りにくり返さねばならないんだ。
 私が考えること、行うこと、それをみんな彼奴が盗んでしまうんだ。彼は私を貪りつくし、裸になして、そして其処に震えつつ転っている私の魂をまで※[#「祗」の「示」に代えて「舌」、第3水準1−90−58]《しゃぶ》ろうとしている。
 私はそれでもまだ自分に力があることを信じている。私が今まっすぐに彼に向って歩き出したら、私をとり巻く彼の世界をずっと通りぬけることが出来るという確信がある。然し私は怖いんだ。身の毛が立つほど怖いんだ。
 彼の世界にはその奥に薄い膜がある。私にはそれより先は見えないんだ。それは薄い膜だから一寸爪先で蹴ればすぐ破けるに相違ない。然し今その先のものが私を脅かしている。私はよく夢の中で高い所から底のない深みへ、息づまるような速力で一直線に落つる恐怖を感ずることがある。私がその薄い膜から先を覗こうとする時は、それと同じい恐怖が私を襲うのだ。
 然しこのままで居ては只彼からこの生命を吸い取らるるばかりなんだ。私はどうにかしなければいけないんだ。

 ――寒い風がすさまじく吹いている。その音が私の頭に当ってかんかんという音を立てている。カフェーの中の円い卓子に倚っていても私の身体は風の音にふらふらと揺られそうだ。
 その時入って来た彼を見て、私は思わず歯をくいしばってしまった。
 彼は決して頸巻をしていたことがなかった。それにその晩は私と同じなラクダの布で、而も私と同じように顔の下半分を包んでいたのだ。この頸巻が与える頬の感覚は、私の深い生命の世界の知覚と非常に密接な関係を有していた、私には貴い残りものなんだ。それを今彼がほっそりとした頬に盗んで楽しんでいるんだ。私は口惜しかった。それでじっと睥みつけてやった。すると自分の頬に滑らかな彼の頬の肉の触れるのを私は感じた。私は驚いて飛び上った。
 その瞬間私の頭の中には最も周到なる熟慮が働いて復讐の計画がたちどころに成った。それで私はぐっと落ち付いてやった。
 彼の所へ紅茶を運んだ女中を私は呼んだ。そして一寸用があって出かけるけれどすぐに帰って来るから紅茶を用意しておいてくれと云った。
 外に出ると私は寒風の中を突進して、近くの帽子屋に入った。其処で彼奴のと同じな中折帽を一つ買って、私はまた駈け戻った。
 カフェーの前に来た時私の呼吸は喘いでいた。で暫く其処に立ち止って息を静めた。それから鳥打を袂の中にねじこみ、中折を眼深にかぶって、私は悠然として中へ入った。
 室に入ると私の心の緊張が何かぎざぎざしたものにそっと撫でられた。そして張り切った私の力が何処かへぬけ出してしまった。私はぼんやり首垂れて自分の席へ着いた。
 その時彼が私を嘲笑ったのだ。口元に皺をよせて白い歯を少しその唇の間から見せ乍ら、賤しい蔑視の眼を私の上に据えたのだ。私は非常な屈辱と忌々しさを感じた。然し私は力なく首垂れている自分を彼の前に贄として差出すの外はなかったのだ。
 何という様《ざま》だろう! 私はとうとう彼の惑わしの糸に搦められてしまったのだ。もうどうにも出来ないんだ。
 彼のうちには深い穴があるのを私は初めから知っていた。彼がじっと眼を据えたものから何かが流れてその穴の中へ入って行くのを私は見た。私は今はっきりと知っている。それは物の魂なんだ。この仕方で彼は私の世界に在る凡てのものの魂を吸い取ったのだ。私の頬の感覚までも吸い取ったのだ。そして今私の魂をも吸い取って※[#「祗」の「示」に代えて「舌」、第3水準1−90−58]ろうとしている。この貪って飽くことを知らない穴が、その底に無限の空間が続いているその闇の穴が、今じっと私を吸いつけようとしている。
 私にはもう魂のない平面的な、現実の堅い皮ばかりしか残されていない。そして裸で震えている一人ぼっちな自分の魂しか残されていない。然し私の魂があの穴なしの闇の穴に吸い取られる前に、私は屹度彼に対して、最期の奮闘をしないではおかない。私にはまだこの屹度という強い意志があるんだ。

 ――その次の火曜に私は一つの武器を持ってカフェーに行った。それは彼が煙草を吸わないことなんだ。その時私は大海の真中に身を投ずるような心地がした。
 私は葉巻を二本途中で買った。一本は袂の中にしまった。そしてカフェーの前に立った時一本に火をつけた。
 私はじっと下腹に力を入れそして拳《こぶし》を握った。それから右手の指に強く※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ葉巻をすーっと吸った。その煙を吹きつけ乍ら私は扉を押した。
 其処には早や彼が来て静に腰掛けているのを私は見た。
 私はそのままつかつかと進んで彼の傍に立った。彼がふり向いてじっと私を見上げた。ここだと私は思った。で全力を尽してぐっと沈着を装った。そして云った。
「君は煙草を吸わないんですね!」
 その時私の眼は恐ろしく彼を睥みつけていたんだ。それでも彼はゆっくりと答えた。
「煙草はきらいです。」
 何と云う妙な声だろう! 幅広い風が地面に沿って流るるようなんだ。妙にぽかんとして消え去ったその声の跡を追っていると、何だか柔いものが私の全身を捉えた。そして私をすーっと空中に持ち上げようとしている。持ち上げて此度は目が眩むような速度で私を深い所へ落そうとしている。
 その時彼がつと立ち上った。そして私をじっと見据えた。どうにも出来なかったのだ。私の全身は柔いものに縛られている。そして彼の凄い眼が私の心にぷすぷすと小さい針を無数にさし通している。
 その時私はぐっと足をふみしめてやった。きらりと私の頭の中に光ったものがある。私は拳固をかためて卓子の上を一つ強く叩いてやった。そしたら私を捉えているものがふっと弛んだ。畜生! と私は怒鳴
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