るけはいがした。そして私は夢から醒めたようなぽかんとした気持ちになった。彼の世界がはっと身をかわして、物影に引き込んだのである。
 知らない新らしい客は二人の洋服の男だった。彼等は呑気に中央の大きい卓子にかけて珈琲を飲んでいる。彼等は何にも知らないんだ。そして何にも見えないんだ。
 私はふっと解放された自分を見出したけれど、室の隅々から、私をじっと窺っている無数の眼をはっきりと知っていた。彼奴だ、彼奴がその中に居るんだ。二人きりの沈黙の時が来たら、今にも其処から飛び出して私を捕えようとしているんだ。四方からじっと隙を窺っているんだ。
 私はその時は堅く堅く心を閉す必要はなかったのだ。然しそれだけ不安が大きかったのだ。私はぶるぶる震え乍ら漸々そのカフェーから逃げ出すことが出来た。

 ――悶え乍らも私はやはり彼の方へぐんぐん引きつけられてゆく外はなかった。力をこめてぶつかって行こうとすれば、ふうわりと大きいものの中に彼は私を包んでしまうのだ。
 私達の何れかが何かを飲んでいる時、それを見て後から来た方が同じものを注文するのは別に不思議はないんだ。然し私は只頭の中で考えたきりじっとしていることがある。その時は屹度彼が私より先にそれを女中に云いつけるのだ。私が考えて彼がそれを先に実行するということがあっていいものだろうか? 私は泣き出しそうな顔をし乍ら、やはり私が考え彼が実行したことを、その通りにくり返さねばならないんだ。
 私が考えること、行うこと、それをみんな彼奴が盗んでしまうんだ。彼は私を貪りつくし、裸になして、そして其処に震えつつ転っている私の魂をまで※[#「祗」の「示」に代えて「舌」、第3水準1−90−58]《しゃぶ》ろうとしている。
 私はそれでもまだ自分に力があることを信じている。私が今まっすぐに彼に向って歩き出したら、私をとり巻く彼の世界をずっと通りぬけることが出来るという確信がある。然し私は怖いんだ。身の毛が立つほど怖いんだ。
 彼の世界にはその奥に薄い膜がある。私にはそれより先は見えないんだ。それは薄い膜だから一寸爪先で蹴ればすぐ破けるに相違ない。然し今その先のものが私を脅かしている。私はよく夢の中で高い所から底のない深みへ、息づまるような速力で一直線に落つる恐怖を感ずることがある。私がその薄い膜から先を覗こうとする時は、それと同じい恐怖が私を襲うのだ
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