開いた。折詰には海苔巻がはいっていた。海苔巻の中は、干瓢と沢庵と玉子焼である。それをつまみながら、私はサイダー瓶の酒を飲み、彼女は水筒の茶を飲んだ。
「さっき、なにをお怒りなすったの。」
「怒りやしないよ。」
「そう。」
「怒りやしない。」
 彼女はにこりと笑った。
 至極、太平なのである。だが、一瞬、不安がかすめた。危なかった。私は彼女を火口の中に突き落すか、一緒に飛びこむか、どちらかを遂行したかも知れない。遂行、そうだ、前からその計画が胸に萌していたようでもある。浅間山麓に行こうと誘った時から、或は、登山しようと言い出した時から、無意識のうちにその思いがなかったであろうか。有ったとも無かったとも言えない。だがあの時は全く、危険な瞬間だった。あの決定的な瞬間に、私が彼女を引き戻したのは、なぜか。危険だったからと、循環するより外はない。その危険を避けたのは、私の弱さであろうか、愛情であろうか、本能であろうか。
 然し、そのような思いも、既に回顧にすぎない。不安はすぐに去って、太平な気持ちになる。山の上で海苔巻などを頬張ってるのは、よいことである。
「ずいぶんたくさんあるね。」
「またあとで食べましょうか。」
「いや、すっかり平らげてしまおう。」
 ゆっくり食べ、ゆっくり飲み、そして煙草を吸った。
「ああ腹が一杯だ。」
 立ち上って、また噴火口を覗きに行った。太陽もだいぶ昇り、白昼の火口は、ただ巨大な鍋の中を見るようなものだった。私はからのサイダー瓶を、力いっぱいに投げこんだ。広大な火口の中、それはいくらも飛ばず、ひらりと白く光っただけで、すぐ近くに落ち、火口壁に隠れて、音もなく行方も分らず消え失せてしまった。
「危ない。」
 突然、思いがけなく、その感じに私は虚を衝かれた。くるりと向きを変えて、火口から歩み去り、また岩かげに腰を下した。淋しくて惨めだった。何もかも頼りなかった。後からついて来た秋子を招き寄せて、私はその膝に顔を伏せた。何もかも頼りないのだ。憑いてくれ、しっかりと憑いてくれ、そうでないと、俺は淋しいんだ。しっかり憑いていてくれ。そんなことを心の中で言いながら、私はますます惨めになった。
 憑くという意味が、全然別なものになってることを、私は知っている。だが、それでよろしい。秋子を火口の中に突き落すようなことは、私にはもう出来ない。憑かれるのを嬉しがってるのだ。顔を挙げて彼女を見ると、彼女も私の眼にひたとその眼眸を押しつけてくる。何も見ていない白痴の眼だ。私は溜息をついた。先刻の一瞬、生々と蘇った彼女の眼のことを、私は思い出した。
 冒険をしてやろう。
「追分口の方へ降りてみようか。」と私は言った。
「道がありますの。」
「ある筈だ。無くたって構やしない。」
 起伏してる丘陵を越えて、遙かにアルプスの連峯が立ち並んでいる。地平は遠い。すぐ眼の下が追分駅だ。その辺一帯に落葉松の林が拡がっている。その林の方を目指して、いい加減に路を選び、私達は山を降りて行った。酒と彼女とに別れない限り、それぐらいの冒険が私に残されてるに過ぎなかった。



底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
   1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「改造文芸」
   1949(昭和24)年5月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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