ある。秋子はてきぱきとすべてを処理する。これはうまいとかまずいとか、料理品のことまで私に教える。朝はビールを二本にして、昼食はぬきにすると、裁断を下してしまう。
 いったい、これはどういうことだろうかと、畏敬の念で私は彼女を見上げた。前髪の方は少しく縮らし、後ろを思いきりアップに取りあげて、襟足をくっきりと見せ、はでなお召の着物に伊達巻の姿で、膝をくずし加減に坐ってるところは、婀娜っぽい冷たさがあった。私には取りつく島がないような感じだ。両手を後頭部にあてがって寝ころんでいると、彼女はその眼眸をひたと私に据えたまま、しばらく時を置いて言う。
「寝ころんでいらっしゃると、ずいぶん、体がお長く見えるわ。」
 私はむっくり起きて、立ち上った。
「立ってる時と、どっちが長い?」
「やっぱり、寝ていらっしゃる方が、お長いわ。」
 なんとばかなことを、なんと真面目に言ってることか。私は頭をかきむしりたくなった。
「も少し酒を飲もう。飲ませてくれよ。」
 彼女を相手にしていると、やたらに酒が飲みたくなる。いつもそうだ。そして酔ってくると、こんどは私の方が、下らないことをべらべら饒舌りだすのである。――僕たちはお互いに、愛し合っていますなどと、歯の浮くようなことを一度も誓い合ったことがない。これは現代式で甚だよろしい。然し、僕は君を本当に愛している。愛してはいるが、然し、恋してはいない。然し、恋愛はさめ易いが、愛情はなかなかさめないものだ。然し、愛情にも何かの支柱がいる。その支柱を探そう。然し、こう酒ばかり飲んでいては、二人とも駄目だ。少し真面目になろう。然し、真面目になりすぎてもいけない。子供のように遊ぶことが大切だ。子供のような純真さ……。
 然し、然し、の連続で、何のことやら自分にも分らないのである。それでも、秋子はことごとく賛成してくれる。つまり、二人の間には、見解の相違とか意見の衝突とかは、聊かもないのだ。
 私はやりきれなくなる。
「もうお酒は充分でしょう。」と秋子は言う。
 こんどは、私の方がそれに従う。
「アドルムはやめましょうよ。」
 彼女自身でもそれを服用してるかのような調子で言う。その気持ちは私にも分るし、私はそれに従う。だが、閨の中の彼女は全く消極的で、少しも能動的なところはない。ただぼってりした肉の温みだけだ。何等の技巧も知らないし、呼吸の乱れもなく、眉根に皺を刻むことさえなく、僅かに腹部を波動させるだけである。そしてオルガスムの後で、私の胸に顔を埋めて、くくくくと笑う。何か悪戯をした後の子供のような忍び笑いだ。羞恥の笑いでもなく、人をばかにした笑いでもない。くくくく、ただ本能的な反射的な笑いだ。それが私の心をすっかり冷してしまう。可愛いと思うどころか、何かの欠陥に突き当った感じである。
 どうかすると、眼をあけて、と彼女は言うことがある。あたしの眼を見て、と言うことがある。それだけが唯一の要求だ。さすがに大きくは眼を開けず、薄目をあけて彼女の眼に見入るのだが、その視線を彼女の眼は呑みこみ、ぼーとした夜燈の薄明りの中で、彼女の眼は空洞のようにも思える。その空洞に柔かな白いものが一杯つまり、黒目が液体となってとろけ、瞳孔は拡大したままで、私の方に覆いかぶさってくる。物を見てる眼ではない。かぶさってきて、膏薬のようにひたりとくっつき、相手の息の根を塞いでしまう眼だ。
 その眼を、私はいつも自分の肌に感じた。
 秋子は一人になるのを嫌った。外に出歩くのを好まず、随って私も宿の室に引籠っていなければならない。高原の風物も、初夏の中空に立ち昇る浅間の噴煙も、彼女の興味をあまり引かないらしい。私は寝ころんで文庫本を読み、彼女はトランプの独り占いなどをやる。何のためにこんな処まで来たのだか分らない。酒を飲み、飯を食い、湯にはいるだけのことだ。話の種もあまりない。二人くっついていて、そして……情死を躊躇してる男女のようにも見えるだろう。
 宿のわきに、ささやかな渓流がある。私は浴衣と丹前の姿でぶらりと脱け出す。渓流の水は少く、河原が広くて、灌木や雑草が茂っている。河原伝いに、ほそぼそと路が続いている。私はその路をさか上ってゆく。白や赤の花が咲いている。思わぬところから小鳥が飛び立つ。人影はない。路はとぎれがちで、やがて叢の中に迷いこんでしまう。河原におりてゆき、大きな石に腰をおろすと、浅間の噴煙が真正面に見える。
 噴煙とも思えないほどの、静かな白い煙である。空は青くあくまでも高い。その中空に、円みをもって盛り上ってる峯から、煙はゆるやかに流れて、行方も分らず消え失せる。頼りなく淋しい。剛壮な気など少しもない。私の心がそうだからであろうか。軽く眩暈がするようだ。顔を伏せて河原の小石を眺める。初夏の陽は照っているのに、その温かみを背に
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