めたのを見ると、小さくはあるが、湍々していて、仄かな匂いをも持っていた。八百屋から来た蓮の葉に比べると、新しいだけに色艶もよかった。
それだけのことを唯一の収穫にして、私はいつしか蓮鉢を忘れがちになった。年を越して昨年の春、鉢の泥を半ば取換えてやろうかとも思ったが、それもつい不精から時期を過してしまった。そして暖くなるにつれて、鉢の中は油ぎってねちねちしてきたが、それと共に、一つ二つ蓮の巻葉が出だしてきた。強すぎる肥料のしみた泥土の中にも、根だけは生き残っていたものと見える。伸び出した葉は、前年と同じように小さないじけたものだったが、それだけにまた可憐でもあった。私はもう、花は勿論大きな葉をも期待せずに、その小さな葉だけで満足した。
七月の末から、私は妻や子供と一緒に、房州の外海岸へ行って、一夏を其処で過した。盛んに繁茂してる蓮田を見ると、自分の貧弱な鉢が思い出された。そして九月のはじめ家に帰ってきて、私は少なからず驚かされた。庭の鉢から、相当に大きな葉が、七八本も、真直に伸び出していた。
「花は……、」と留守の女中に私は尋ねた。咲かなかったという答えだったが、別に失望もしなかった。それだけ葉が生い茂るようでは、来年あたり花をつけるかも知れない、と私は思った。どうだい……という得意の眼付で、妻の顔を見返したし、またやがて、友人や叔父の顔をも見返してやった。
ただ悲しいことには、蓮の葉の裏面や柄に、油虫が沢山群っていた。鉢の上方に桃の一枝がさし出ていて、それから伝播したものらしい。私は惜し気もなくその桃の枝を切り去り、それから蓮の葉の油虫を鏖殺してやった。蓮の葉は勢を得たように、青々と茂っていった。もう余分の肥料も泥土に吸いつくされたらしく、水がさっぱりと澄んで、青い藻まで生えていて、蓮池特有の匂いも、気のせいばかりでなく実際に感ぜられた。それから霜時になると、枯蓮の趣きも充分に見られた。
そして、冬を越して今年の春である。今日彼岸の入りに、藁の覆いを取去ってみると、鉢の泥は肥えて黒ずみ、水は冷く澄み返り、所々に枯葉の柄が残っている。今に其処から、青々とした巻葉が伸び出し、それが円く大きく拡がって露のしずくを宿す頃には、更に花の蕾が伸び出してきて、夜明の光に音を立ててぱっと開くであろう、などと想像すると私は、蓮のうてなに坐すような清浄な心境を覚ゆる。それにして
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