楊先生
豊島与志雄
楊先生――私達の間では彼はいつもそう呼ばれた。一種の親しみと敬意とをこめた呼称なのである。父は日本人で、母は中国人であって、中華民国に国籍がある。
長らく東京の本郷区内に住んでいたが、最近、関西方面へ飄然と旅立っていった。恐らく、中国へ帰るつもりでいるらしいと、私には思える。追想は深い。
この楊先生を、今年の三月の或る夕方、私は通りがかりに訪れてみたことがある。
「只今、お仕事中ですから、こちらへ御通り下さい。」
女中はそう言って、私を、玄関から裏庭の方へ導いた。仕事中なら書斎の方だろうと思ったのだが、黙って女中について行くと、狭い裏庭の真中に大きな石が据えてある、その石に、楊先生は腰をおろして、煙草をふかしていた。薄いシャツとズボン下だけのみなりで、腰に帯を巻きしめ、汚れた手拭を帯にさしはさみ、足には支那靴をはいている。傍には、古材木が重み積ねてあり、鋸や大鉈小鉈が揃えてある。
私は微笑した。
「仕事というから、なんだと思ったら、薪割りですか。」
「そうです。下男の仕事です。似合うでしょう。」
楊先生は真面目にそう言った。中国の普通の家庭では、家の主人が下男の仕事などは決してしないものだと理解していた私は、彼の言葉や表情になにか皮肉なものを探ろうとしたが、彼はまったく真面目なのである。
「この頃になって私は、労働の面白さ、楽しさ、有難さ、そんなものを感じてきましたよ。材木を鋸でひいて、その一片を割台の上に立てておいて、鉈でぱーんと打ち割ることに、日本の剣道の味さえ感じます。」
「然し、骨が折れましょう。」
「なに、大したことはありません。書斎の仕事ほど疲れはしませんよ。」
書斎には、和漢洋の書籍が夥しく並んでいる。その中に彼は埋まるようにして、種々雑多なものを読みあさっていた。系統的な学問をしてる様子はなく、嗜好に任せた読み方らしかった。老子を殊に好きらしく、和漢の注釈書を集めていた。だが、小説の大作をするつもりで、いろいろ構想をねっていると、酒の上で彼は私に漏らしたこともある。
その書斎にいる時、彼はいつも、どっしりと構えていた。支那の大人風な貫禄を具えていた。その貫禄は、今、シャツ一枚の薪割姿では、頑丈な骨格となって目立っている。五十年配の痩せた体躯だが、へんに骨の節々が太いように感ぜられる。
茶を運んできた女中の後姿を見送りながら、楊先生は言うのだった。
「女中は、はじめ、私が薪割りをするのを好みませんでした。けれど、この頃ではすっかり馴れて、薪が無くなると、私に言ってくるようになりました。愉快ですよ。」
近所が空襲のために焼けて、瓦斯がとまってからのことらしいのである。
「更に空襲がはげしくなって、災害も大きくなったら、こんどは、水道もとまるようになるでしょう。町会からそのようなことも言ってきました。そうしたら、私は、水汲みもやろうと思いますよ。朝から夕方まで、水を汲む、薪を割る、竈の火を焚く、つまり、自分の家に下男奉公をするのです。そうすることによって、労働の味を覚えます。そればかりでなく、野菜も作ってみようと思っています。野菜畑にする場所を見廻っていますと、思わぬところに、今まで知らなかった草や木を発見します。そうすると、その草や木に愛着を覚えて、日当りのよい場所に移し植えてやりたくなります。そのようないろいろなことで、一日中、忙しく働かねばなりません。また、働くのが楽しみになります。」
私は彼の真面目な表情を見た。
「一種の道楽ですね。」
「そう、戦争中の健全な道楽かも知れません。いったい、高度な文明は、決して断水しない水道とか、決して停電しない電気とか、決してとまらない瓦斯とか、そういうものを主張しますが、やはりわれわれには、時々断水する水道や、時々停電する電気や、時々出なくなる瓦斯などの方が、なにか親しみがあって、いいようです。それはわれわれに、種々の健全なそして楽しい道楽を与えてくれる機縁となります。」
楊先生は自ら識らずして大きな皮肉をとばしていた。そして彼自身は至極真面目なのである。楽しそうでさえある。
私は何も言うことがなかった。薪割の邪魔をしないようにと、間もなく辞し去った。
その後、東京空襲はますます激化し、災害地域は拡大して、至る所が焼け野原となった。私の友人知人にも罷災者が続出した。この間私は、まあ焼け出されるまではと、度胸をきめて、時折、自転車を乗り廻すのを楽しみにした。そういう自転車散歩の或る朝、六月のこと、偶然、楊先生に出逢ったのである。
私の自転車は習いたてである。少しの坂道はもう駄目で、降りて歩くより外はない。崖上の小道なども危いので、四方を眺めるような風をして、自転車を押して歩くのである。
そういう崖上の小道に、その日、さし
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