今度また拾い上げられて世に出たのであって、地蔵さん自身が延命したという意味なのです。
 この延命地蔵の前には、その後、時折に、花や供物が捧げられました。相良家の分譲地の人々がお詣りに来るのです。そしてあすこの病気の女人たちも、次第に快方に向いました。

     第三話

 A女と同じ年配の未亡人には、なお、小泉さんというひとがありまして、これも親しく交際しておりました。世の中にはずいぶん未亡人が多いようです。
 あるつまらない用事で、A女は小泉さんを訪れて、つい話しこんでしまいました。春さきのことで、炬燵の温みに引き留められた、とも言えましょうか。
 違い棚の上に、見馴れない新しい硯箱が置いてありました。蓋には、渋い朱色に銀象眼が散らしてあります。
「しゃれたものですわね。新しくお求めなすったの。」
「達吉が拵えたんですのよ。気紛れに、つまらないことばかり始めて、仕様がありませんわ。ずいぶん長い間かかって、ようやく出来上りました。」
 達吉というのは、小泉さんの息子で、建築が専門であって、美術学校出身なのです。
「ほんとに御器用ですね。」
「勝手なことばかりしていたいのでしょう。少し忙しくなると、不平でしてね。この頃は毎日、松しまへ出かけておりますの。」
 小泉さんは達吉が自慢なのである。表面はけなすようなことを言いながら、じつは誉めてる調子でした。
 松しまは、少しばかり距ったところにある花柳界のそばの、大きな一流の料亭でした。戦災にあいましたが、元のところに数室の家を新築して、繁昌しておりました。手狭なので、建て増しを始めて、前から出入りしていた達吉も、その方の仕事にかかっていたのです。
 ただし、達吉は建築の専門家とはいっても、凝った普請についての技術者で、大きな設計図を弄りまわすことなどは不得意でした。ところが、達吉を贔屓にしてる女将は、なにかと彼に相談しかけました。相当多額の出資をしてもよいと言う人があって、その話がまとまったら、一挙に、昔のような広大な家にしたいと、間取りのことなど、達吉の意見を求めました。達吉はいささか困ってるようでした。
 そのようなことを、普通の世間話の一つとして、小泉さんは話しました。
 A女は何気なく聞き流していましたが、自分でも気付かぬうちに、ひょいと言ってしまいました。
「その資金の話は、今年中はまとまりませんね。それから、女将さんは手広く商売をしたいと考えなすってるようですが、それはだめですね。まあ一室ずつ建て増しでもして、手堅くやることですよ。」
 そこで二人とも、へんに黙りこんでしまいました。A女の方では、由ないことを言ったものだと、後悔の念がきざしたのです。小泉さんの方は、互に知り合いである村尾さんから、A女の隠れてる半面をちらと聞きかじっていましたので、A女の今の言葉を胸に味ってみたのです。
 やがて、A女はさりげなく笑いました。
「よけいなことを言って、御免なさい。ちょっと、そんな気がしたものですから……。」
「なに仰言るのよ。松しまのことなんか、わたくしは何とも思ってはいませんわ。」
 そして、話は他のことにそれました。
 ところが、あとで、小泉さんは達吉に、A女の言ったことを伝えましたし、達吉はそれをまた、何かのついでに、松しまの女将の耳に入れました。
 それだけならば、なんのこともなかったのですが、小泉さんは次の機会に、松しまの噂をまたもしました。達吉から聞いたことも伝えるという、それ以外に他意はなかったのでした。とにかく、女というものはお饒舌りなものです。
「達吉が女将さんから聞いたところによりますと、やっぱり、資金の話は、今年中にはまとまりそうもないらしいんですの。そして、手堅くやってゆくことに、女将さんも賛成らしいんですよ。」
「そうでしょうとも、それがほんとうですわ。」
 それはただ軽い応対でしたが、A女はそのあとで、忠告するように言いました。
「あのうちには、熱心に信仰したものがあるはずですよ。それが今はうっちゃってあります。も一度信仰なされば、きっとよいことがありますでしょう。どうやら、伏見稲荷のように思われますがね……。」
「そのこと、達吉に聞かせてみましょうか。」
 A女は夢から覚めたようにびっくりしました。
「いけません。そんなこといけませんよ。どうか内緒にしといて下さい。わたくし、ちょっと思いついただけですもの。」
 A女はよく念を押しておきました。
 けれども、小泉さんにとっては、そんなこと、大したことでもありませんでしたが、また、ちと気にかかることでもありましたので、達吉に話してしまいました。
 すると、達吉はたいへんな頼みごとをもたらしてきました。
 松しまでは以前、伏見の稲荷さんを祭って信仰していました。戦災後はそのままになっていましたが、女将さんとしては、再び祭るつもりではいたのです。そこへ、達吉からの話となり、女将さんはすっかり驚きました。伏見稲荷ということまで、どうして分ったのでしょうか。この前の、資金のことや、商売のやり方のことなども、そっくり腑に落ちるし、こんどの話は、一層胸にこたえました。商売柄、易者とか占い者とか、いろんなひとが来たことがありましたが、どこか空々しい感じでした。それが、今回は違います。達吉の母の友だちだとかいうことですが、どういうひとなのでしょうか。
 女将さんは、もとは芸妓をしていたことがあり、もう六十歳を越していて、まだ元気で勝気でした。そして一徹な気象で、単純で、性急でした。達吉の母親の友だちというそのひとに、すっかり惚れ込んで、是非とも連れて来てほしいと達吉に依頼しました。丁度、建て増しのために、庭師もはいっているし、稲荷さんを祭るには、早速場所の選定をしなければならないから、それをそのひとにして貰うことにし、そして自分は、伏見稲荷の御礼を受けに、京都へ出かけて行き、日取りは帰ってきてから打合せようと、言い置きました。
 達吉の話を聞いて、小泉さんもさすがに慌てました。A女のところへ飛んで来て、なんとかしてほしいと頼みました。
 A女は眉をひそめました。
「だから、わたくし、初めから言っておいたじゃありませんか。」
「ええ、それはそうですけれど、まさか、こんなことになろうとは思わなかったものですから……。」
「わたくしはまだ、自分の信仰の道を、売り物にはしたくありませんの。松しまさんのことだから、謝礼とかなんとか、そんなことを言われるに違いありません。なんだか、普通の行者や易者などと、同じように見られてるような気がしますわ。」
「それは、わたくしからよく申しておきましょう。とにかく、考えなおしておいて下さいよ。頼みますわ。」
 小泉さんは遠慮して、しつっこくは言いませんでした。
 けれども、松しまの女将さんの方は、京都から帰ってくると、やたらに催促しました。達吉に毎度言づてするばかりか、小泉さんのところへ女中を寄来して、先方へ願ってほしいと頼みました。稲荷さんを祭る場所がきまらないので、庭師の仕事にも差支えて困っている、とのことでした。
 それを聞いては、A女も無下には断りかねました。名前だけはあくまでも祕して、という条件で、小泉さんと一緒に出かけて行くことにしました。
 約束の日に、A女は自分の身に御経がけをして出かけました。普通の行者なみに見られては忌々しいものですから、入念にお化粧をし、お召の着物に塩瀬の帯、紋付の羽織をひっかけました。小泉さんはA女より少し背が低く、なんだか付添いの女中のように見えました。
 松しまの入口は、手狭い洒落た造りで、そこをはいると、ゆるやかな上り勾配の地面に砂利を敷きつめたのが、思いがけなく広がり、突き当りに寒竹の茂みがあって、左手が玄関の式台となっています。
 A女はちょっと、寒竹の茂みの前に足を止めました。
 ――ここだ。
 音なき声がしましたが、彼女は素知らぬ顔をして、屋内へ通りました。
 女中に案内されて、一室に落着きますと、すぐに女将さんも出て来て、みごとな菓子や果物のもてなしがありました。女将さんは顔の色艶もよく、言葉もてきぱきしていまして、髪だけが老年らしく引きつめに結ってあります。いろいろなことを口早に饒舌りました。おもに昔のことで、縁日とか祭礼とか、お酉様の話まで出ました。それにまた、午前中のこととて客はありませんでしたが、用が多くて、しばしば席を立ちました。女中頭らしい年増の女が、女将さんの代りをつとめました。
 稲荷さんのことは、一向に持ち出されませんでした。いつまで待っても駄目らしいので、A女がそれとなく合図をしますと、小泉さんがそれを言い出してくれました。
 用件の話になると、こんどは急速にはかどりました。女将さんと女中頭とが、A女をあちこち案内しました。地所はまだ広く残っていますが、そこは将来の増築の場所ですし、庭の方にも思うような場所はなく、最後に、女将さんの居間の横手に連れてゆかれました。
「ここならどうかと思っておりますんですが……。」
 女将さんは初めからそこを物色していたらしいようでした。
 A女の胸にぴんときました。
 ――不浄の地。
 A女自身にもその理由は分りませんでしたが、静に言ってみました。
「ここはなんだか、不浄な場所のような気が致します。」
 女将さんと女中頭は顔を見合せて、頷きあいました。そして女将さんが言いますには、居間のそばだから丁度よいと思っていたが、言われてみれば、なるほど、そこの板塀の外が道路になっていて、夜分になると、立小便する人が多い、とのことでした。
 そこがだめだとなると、ほかにもう適当な場所はなさそうでした。女将さんは溜息をつきました。
「どうしましょう。」
 A女はためらわず言いました。
「いえ、もう場所はきまっております。」
 こんどはA女が案内する番になって、一同は玄関から表へ出ました。
 A女は寒竹の茂みのあたりを指し示しました。
「ここがお宜しいかと存じます。」
「女将さん。」女中頭が言いました。「わたしもそう申しておりましたでしょう。」
 女将さんは頷きました。
 事がきまりますと、A女はその足で辞し去ることにしました。お午の食事の支度が出来てるからと、女将さんと女中頭はしきりに引き止めましたが、A女は鄭重に辞退しました。
 表の街路に出ると、小泉さんはA女を仰ぎ見るようにしました。
「まったく、あなたには感心しましたわ。」
 A女はかるく含み笑いをしました。
「あんなの、なんでもないことですよ。」
 それよりも、あとにまた別なことが出来てきました。
 場所がきまったとなると、松しまの女将さんは、一日も猶予せず、稲荷さんの祠の建設に取りかかりました。それには先ず、地ならしをして、地所の浄めをしなければなりません。その地所の浄めを、A女にしてほしいと言い出しました。A女の住所は内密にしてありましたので、またもわざわざ、小泉さんのところへ女中が使に来ました。二度も来ました。小泉さんはA女のところへ、往ったり来たりしました。
 A女ももう乗りかかった船と諦めました。その代り、条件を一つ持ち出しました。稲荷さんの祠が建ったら、伏見稲荷の御札を納める御魂入れの儀式を取行って、献饌の儀をしたり、祝詞を上げたりしなければならないのだが、それは自分のような素人にはだめだから、必ず正式の神官に頼んで貰いたいと、そういう条件でした。その条件を守って貰いさえすれば、素人の我流のやり方ではあるけれど、地所の浄めは引受けましょう、と返答しました。
 それからいろいろ打合せをして、当日、A女はまた入念に化粧をし衣裳を選んで、小泉さんと一緒に出かけました。
 寒竹の茂みを背景に、平らに地ならしが出来ていて、そこの小地域、四方に竹を立て、注連縄が張ってあります。中央には、御幣をつけた榊の枝が立っており、塩も盛ってあります。
 A女はその細そりした体を、いささか前屈みにして、小揺ぎもなく突っ立ち、拍手を打って、「滌の祓」を読み上げました。
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たかまのはらにかむづま
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