、「宝塔偈」と「発願」とを誦し終りました。
A女は江口さんの方へ向き直り、見据えるようにしていました。
「ミロクというかた、御存じですか。」
江口さんはふしぎそうにA女の顔を見上げました。
「身禄さんなら、知っています。」
「どういうかたですか。」
そこで江口さんは、身禄さんのことを話し、通りがかりにただなんとなくお時儀をしていることを打ち明けました。
「それで分りました。そのミロクさんは、御近所の土地の火伏せの神です。近々のうちに火事が起るかも知れませんから、大事にならないよう、お詣りをなさいませ。お塩とお米をお供えなさるだけで、結構です。なるべく皆さん大勢で、お詣りなさったが宜しいでしょう。うち捨てておかれては、災難が起ります。わたくしも、近日、お詣りしてあげましょう。」
それでほっと息をついた様子で、A女は頬笑み、姿勢をくずして、ふだんの親しい調子に戻りました。
江口さんはなお、いろいろ相談しました。A女は助言してやりました。それから他愛ない世間話となりました。
ところで、江口さんが住んでいる家というのが、戦争前は下宿屋でもしていたらしい大きな家で、室がたくさんあって、十近くもの家族が住み、それぞれ自炊しているのです。
身禄さんのことを江口さんは気にかけて、吹聴して廻りました。A女のことは堅く口止めされていました故、ただ漠然とどこからともなく聞いてきたことにして話しました。すると、だいたい三つの説にわかれました。そういうことならまあお詣りをしておこう、という当り障りのないのが一つ。そのようなことはどうでも宜しい、という無関心なのが一つ。この科学の世の中にばかなことを言うものではない、という反対なのが一つ。一向まとまりはつきませんでした。
ただ、江口さんとほかに二家族だけが、身禄さんに時々お詣りをしました。碑のまわりを掃除したり、草をむしったりしました。A女もまた、江口さんに案内されて、お詣りをし、読経を捧げました。
そして、二ヶ月ばかりたったある夜、不思議なことが起りました。
深夜、A女はふと眼を覚しました。へんに息苦しく、異様な気持ちでした。瞳を宙に凝らしていますと、音なき声が聞えました。
――水行。
しかし、その声を聞いたあとで、A女は我に返って、これは厄介なことになったな、と思いました。夏のことではありましたが、夜中に起き上って水を浴びるのは、難儀なことに違いありません。それでも、水行というその無音の声には、どうしても逆らえませんでした。
彼女は起き上って、風呂場にはいり、浴槽に水道の水を注ぎ、そして素裸となりました。
さて水行といっても、バケツで浴びるか、手桶で浴びるか、または洗面器で浴びるかは、その場に至って自然に決定されることです。幾杯浴びるかも、自然に決定されることです。自分の意志によってではありません。過去の経験で彼女はそれをよく知っていました。
その夜、彼女は洗面器を取り上げました。それに水を汲んで肩から浴びました。一杯目はひやりとして、二杯目からはすっきりとして、そして七杯浴びると、ぴたり、手が止りました。
体を拭き、寝間着をひっかけて、室に戻り、衣紋掛の衣類に着替えました。その室は彼女にとって、日常の居室でもあり、寝室でもあり、祈祷所でもありました。彼女は布団を片脇に押しやって、祭壇の前に坐りました。
燈明をあげ、礼拝してちょっと眼をつぶったとたんに、声を立てました。
「あ。」
はっきり見えたのです。大きな二階家の、二階の中程にある、小さな四角な窓から、煙が濛々と吹き出しています……。身禄さん……。「開経偈」を誦しました。次に、「如来寿量品第十六」を誦しました。
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自我得佛来 所経諸劫数
無量百千萬 億戴阿僧祇
常説法教化 無数億衆生
令入於佛道 ……………
[#ここで字下げ終わり]
この経を二回繰り返し、それから御題目にはいって、身禄さんを心に念じました。気も軽く、身も軽くなり、自然に、「宝塔偈」と「発願」とを誦しました。
燈明を消し、寝間着に着替えて、彼女は安らかに眠りました。
翌日になっても、彼女はもう昨夜のことなど気にかからず、家庭の仕事に取りかかりました。
その日の、夕陽がまだ高い頃、江口さんがやって来ました。急いで来たとみえて、額に汗をにじまし、息を切らしています。A女の顔を見ると、いきなり言いました。
「やっぱり、火が出ましたよ。でも、ボヤでよかった。」
「わたくしには、もう分っておりました。まあお上りなさいよ。」
「いえ、そうしてはおられませんの。」
玄関での立ち話しでした。
「どうして、お分りになりましたの。」
A女は昨夜のことを話しました。その落着き払った様子を、江口さんは呆れたように眺めていましたが、こんどは
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