選んだのか、または何か他意あってのことなのか、何れだって構やしないと腹を据えて、彼の話相手になってやろうと思った。
「余り子供を可愛がるから東京に居てはいけないんですって……不思議な話ですね。」
「ええ、不思議です。」
それでも彼は、一向不思議でもなさそうに、またにやりと笑った。
「ではあなたには、お子さんがあるんですか。」
「一人ありました、ずっと昔に。」
「ずっと昔ですって!」
「ええ、昔のことです。今はありません。」
私はまた彼の顔を見つめずにはいられなかった。見たところまだ三十以下の年配なのに、ずっと昔に子供があったというのは、どう考えても可笑しかった。がそれよりも私が驚いたことには、彼の眼は急に曇りが晴れたようになって、底深い空洞《うつろ》を示してきた。そして薄い唇にはなおしまりがなくなってきた。その変化に私は何となくぞっとしながらも、強いて云ってみた。
「一体どうなんです、全体のお話は。」
「それが不思議でしてね……。」
彼の眼はまた曇りを帯びてきた。そして物に慴えたように、横手の方を見やった。通路を挾んだそこの腰掛には、仙台で彼と並んでいた五十年配の男が、上半身を横たえて眠っていた。それを見定めておいて、彼はまた私の方へ向き直った。
「実際不思議ですよ。聞いて下さいますか。」
彼は音をさして唾液《つばき》をのみ込んで、それから話し出した。
「私は東京の本郷の、根津権現の裏手に住んでいますが、あの根津様の中では、いつも大勢子供が遊んでいます。私は子供が大好きでしてね、子供達の遊ぶ所を見るのが、何よりの楽しみです。無邪気で、憎気がなくて、面白いものですよ。余り私が始終見ているものですから、しまいには向うから私になずいてきましてね、私のことを小父ちゃん小父ちゃんって云うんです。時々煎餅なんかを買ってやると、喜んで食べてくれますよ。手ぶらで行くと、小父ちゃん何か買っておくれようって、寄って来てねだるんです。あの辺には駄菓子屋がいくらもありますから、私は餅菓子だの、飴ん棒だの、面子《めんこ》だの、いろんな物を随分買ってやりましたよ。お蔭で貧乏しましたがね、子供のためだから苦にはなりません。だけど、子供に貧乏だってことを知られるのは、親としての恥さらしですね。小父ちゃんはこんな物を食べてるの、と云われた時には、私もつくづく赤面しました。」
彼は恥しそうに微笑まで浮べた。
「ああその子ですか、私の家へ遊びに来たんです。眼のまんまるいくるりとした、五つか六つの女の子です。夕方でしたが、私が家に帰りかけると、後からおとなしくついて来るものですから、私はもうすっかり嬉しくなって、家の中へ引入れました。子供は嬉しそうでしたよ。きょろきょろ室の中を見廻していましたが、やがて馴れてくると、机の抽斗《ひきだし》の中をかき廻したり、茶箪笥の中の物を持出したりして、おとなしく遊びました。ただ困ったのは、食事のことです。その頃私の家には女中がいなくなって、私一人きりだったものですから、昼間会社へ出かける時には、家を閉めてゆくことにしていました。そんなわけですから、晩飯の仕度は自分でしなければならなかったのです。所が子供を一人留守さして物を買いに出かけるのも、何だか物騒だという気がしまして、仕方なしに有り合せの物で間に合せることにしました。丁度海苔と沢庵とが残っていましたから、それを子供と二人で食べました。贅沢な子供で、お肴がほしいとか鶏卵《たまご》がほしいとか云うので、それをあやすのに弱りました。がまあ兎も角も食事を済まして、それから面白い話なんかしてやってるうちに、子供はもう眠くなったとみえて、妙に黙り込んで眼をしぱしぱさせます。私はすぐに布団を敷いてやりましたが、布団を敷いてるその最中に、子供はいきなりわっと泣き出しました。泣きながら、お母ちゃんの所へ行きたいと云うんです。私は小さな押入を開いて、その中の新らしい位牌をさしながら、お母ちゃんはあすこにいるから、お父ちゃんとおとなしくねんねするんだよ、としきりになだめすかしましたが、子供は頭を振って、猶ひどく泣き出すんです。しまいには表へ駈け出そうとします。私もあんなに弱ったことはありません。それでも子供はどうやら私の膝の上で、泣き寝入りに眠ってしまったものですから、私はそれを抱いて寝てやりました。あなたは子供の匂というものを御存じですか。」
彼はしまりのない薄い唇をなお弛めて、一人でにやにや笑い初めた。
「甘酸っぱいような妙な匂ですよ。牛乳の腐りかけたのがありますね、あんな風な匂です。でも子供によって多少違いますね。その甘酸っぱいのに、汗の匂を交えたのもあるし、黴の匂を交えたのもあるし、薄荷の匂を交えたのもあるし、レモンの匂を交えたのもあって、いろいろです。向うに寝てる子供なんか、
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