ことを尋ねましたっけ。しまいには私の眼の玉をひっくり返したり、胸に革帯のようなものをあてて聴いてみたり、体操をさしたりしましたよ。それで私はすっかり悟ったんです。皆して私を狂人扱いにしてるんです。私は癪に障って、狂人じゃないんです、と大声に怒鳴ってやりました。そしてもう何を聞かれようと、一切知らん顔をして黙っていました。それからすぐに、小樽の叔父に引渡されました。どうしてそんなに早く叔父が、小樽から東京へ来たのか不思議です。叔父は私を叱ったりなだめたりして、小樽へ連れ帰ろうとするんです。余り子供を可愛がりすぎるから、東京にいてはいけないんだそうです。不思議な理屈じゃありませんか。私がそれに逆らおうとすると、一体あんな女に引っかかったのがそもそもの間違だ、とそんなことを云って叱るんです。かと思うとまた、小樽には可愛い子供が沢山いる、などとやさしいことを云うんです。私は笑ってやりましたよ。叔父までが私を狂人扱いにしてるんですからね。それでも今こうして、小樽へ連れ戻される所です。」
 そして彼が横手の方の座席をじろりと見やったので、其処に寝てる連れの男が彼の叔父であることを、私は察し知った。
「ただ少し自分でも不思議なことがありますがね。」と彼はごく低い声で囁くように云い出した。
「人間がみんな棒杭のように見えることが、時々私にあるんです。その棒杭がふいに歩き出したり声を出したりするので、可笑しな気持になるんです。何かで私はこういうことを読むか聞くかしたことがあります。長い間監獄にはいってた男が、俄に放免されて世間に出ると、いきなり其処の立木に向って、何やかやと話しかけたそうです。その男には屹度、立木が人間に見えたのでしょう。所が私はその反対です。人間が棒杭に見えて仕方ないんです。やはり頭が少し変になってるのかも知れませんね。然し自分で自覚してる間は、決して真の狂人じゃないそうですが、本当でしょうかしら。」
「それはそうかも知れません。」と、私は答えた。
「そうですね、いや確かにそうです。所がまた不思議なことには、子供は決して棒杭には見えたことがありません。子供だけが生きてぴんぴんしています。子供はいいです。世界中で何もかも木偶《でく》の棒ですが、子供だけは生々と跳ね廻っています。にこにこっと笑う笑顔ったらありませんよ。私の子供もよく笑ってばかりいましたっけ。私がそれにつり込まれて、にこにこ笑い出すと、子供達の方から私になずいて、私の側に寄ってくるじゃありませんか。根津権現の中には、いつも大勢子供が遊んでいますよ。女の子も沢山います。私の家へよく泊りに来たものです。」
 そして彼はまた、斜め向うの女の子を眺め初めた。
「そんなに子供がお好きでしたら、」と私は云ってみた、「一人拵えるか貰うかしたらいいじゃありませんか。」
 然し彼はもう私の言葉に返辞もしなかった。子供の方を一心に眺めながら、時々変な独り笑いを洩らしている。私も仕方なしに黙り込んで、列車の響きに耳を貸したり、車室の中をぼんやり見廻したりした。向うの隅で一人すぱすぱ煙草を吹かしてる者を除いては、大抵皆いぎたなく居眠って、空気はどんよりと濁っていた。
 だいぶたってから、彼が不意に飛び立ったので、私は喫驚して眼を見張った。彼の見つめてる方を見ると、向うの女の子が寝返りでもしたらしく、向う向きにつっ伏していて、母親が半ば眠りながら本能的な手付で、その背中を無心に軽く叩いていた。男はつっ立ったままその方を見ていたが、やがてがくりと座席に腰を下して、マントの襟に顎を埋め、両手を胸に組み、眼を閉じて、いつまでたっても動かなかった。私は長い間、その狂人とも常人とも分らない男を、陰鬱な気持で見守っていたが、変に不気味な圧迫を感じてきた。恐らく彼は、私や他の凡ての乗客を棒杭のように思って、そして自分も棒のようにじっと坐り込んだのであろう。
 汽車はもうとくに盛岡を通過していた。隧道《トンネル》にさしかかると魔物のような音を立て、全速力で走っているらしかった。私は窓の硝子の曇りを指先で拭いて、外の景色を透し見たが、ただ暗澹とした夜だけで、何一つ眼にはいるものもなかった。私はまた空気枕に頭を押しあてたが、変に不安な気持に頭が冴えて、なかなか眠れそうになかった。前の腰掛の男は、眠ってるのか覚めてるのか、先程の通りの姿勢で、棒のようにじっと坐っていた。私はそれをまた長い間見守っていたが、眼に疲れを覚えてくると、ぐるりと横手へ向きを変えて、腰掛の背にもたせた枕へつっ伏した。そしていろんな幻を見たようだったが、いつしかうっとりと寝込んだらしい。
 私が眼を覚した時には、もう白々と夜が明けていた。車室の中がざわめいているのに、喫驚して身を起すと、汽車は浅虫を出たばかりの所だった。もうじきに青森だなと思
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