で雪の上に立っていました。暫くして、振り向いて言いました。
「もうおしまいですよ。さあ降りましょう。」
 眩いがするような気持ちで、あの人に援け降ろされました。も一度ためしてみる気にはなれませんでしたから、黙って帰りました。あの人も黙っていました……。
 その時の、あの人は、保科哲夫という名前でした。それを今まで忘れずにいたことが、中山敏子にはふしぎに思われるほどでした。其後彼に逢ったこともなければ、彼の噂を聞いたこともなかったのです。別れ別れに遠くに相距ってしまっていました。
 それが、今になって、どうして身近に蘇ってきたのでしょうか。敏子はしみじみと瞑想に耽りました。瞑想からさめると、また秋田洋子に逢いたくなりました。

 秋田洋子が勤めてる出版社は、空襲で半焼けになったビルディングにありました。掃除もよく行き届いていない広間に、大勢の人が、ごたごた込みあっていました。中山敏子は少しまごついて、扉口に佇みました。誰に案内を頼んでよいか分りませんでした。
 暫くすると、洋装の洋子が飛んで来ました。
「まあ、あなただったの。まごまごしてる変な人だと思ったら……。」
 洋子は敏子を押し出
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