泊って、山を眺めたり、雪解けの水が流れてる河を眺めたり、おとなしくしていますから、ねえ、よろしいでしょう。」
母はなにか得心のゆかない様子でした。保科が傍らから微笑んでいました。
「それはいいですね。山を眺めたり、雪解けの水を眺めたり……敏子さんすっかり詩人になりましたね。」
敏子は子供のようににこにこしていました。
だが、そんな時に切りだした旅行の話は、却って容易く母の承諾を得ました。母は次第に、敏子の心が捉え難い思いに悩んでいましたので、少しく敏子を自由にしてみたらと、考えたのでした。保科も口にこそ出さないが、同じような考えらしく察せられました。
敏子は二人にお礼を言って、快活に席を立ちました。
敏子は自分の室にいって、膝をとんとん叩きました。もうあの晩とは、すっかり気持ちが変っていました。
二日前のあの晩、敏子はやはり膝をとんとん叩きました。なんだか口惜しくて、じっとしておられませんでした。
――私は結婚を軽蔑しながら、やはり架空の結婚に憧れていたのだった。筒井さんとの縁談を楯に、あらゆる縁談を拒もうとしたのも、ただ特定の相手との結婚を避けて、架空の結婚に憧れているからだった。ソリの幻影を新たに呼び覚したのも、保科さんを愛してるからではなくて、また保科さんから愛されたからではなくて、ただ架空な愛を夢みてるからだった。もうたくさんだ。なにもかも投げ捨てよう。そしてほんとに自由になりたい。
敏子は膝をとんとん叩きました。股の肉が痛く、手の爪が痛くなりました。それでもまだ膝を叩きました。ふと見ると、姿見の鏡中でも、も一人の彼女が、膝を叩いていました。叩くのを止めると、姿見のなかでも叩くのを止めました。じっと眺め入ると、彼女もこちらをじっと眺め入りました。びっくりして立ち上ると、彼女も立ち上りました。その時、彼女はひどく悲しそうな顔をして、やがて涙をほろりとこぼしました。頬に涙が感ぜられました。敏子はそこに突伏して泣きました。あとからあとから涙が出て来ました。そして思うさま泣いてから、坐りなおして、また膝を叩きました。
――私は神経衰弱じゃないかしら。
敏子はまた膝を叩きました。股の肉がしびれてきました。けれど、姿見のなかを覗きこんでみると、もうそこには彼女はいず、まさしく自分の姿だけでした……。
そのことが、敏子の胸をさっぱりさせました。
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