で雪の上に立っていました。暫くして、振り向いて言いました。
「もうおしまいですよ。さあ降りましょう。」
眩いがするような気持ちで、あの人に援け降ろされました。も一度ためしてみる気にはなれませんでしたから、黙って帰りました。あの人も黙っていました……。
その時の、あの人は、保科哲夫という名前でした。それを今まで忘れずにいたことが、中山敏子にはふしぎに思われるほどでした。其後彼に逢ったこともなければ、彼の噂を聞いたこともなかったのです。別れ別れに遠くに相距ってしまっていました。
それが、今になって、どうして身近に蘇ってきたのでしょうか。敏子はしみじみと瞑想に耽りました。瞑想からさめると、また秋田洋子に逢いたくなりました。
秋田洋子が勤めてる出版社は、空襲で半焼けになったビルディングにありました。掃除もよく行き届いていない広間に、大勢の人が、ごたごた込みあっていました。中山敏子は少しまごついて、扉口に佇みました。誰に案内を頼んでよいか分りませんでした。
暫くすると、洋装の洋子が飛んで来ました。
「まあ、あなただったの。まごまごしてる変な人だと思ったら……。」
洋子は敏子を押し出すように廊下に連れ出しました。それから広間に駆け込んで暫くたってから、こんどは落着いた様子で出て来ました。そして先に立って階段を降りて、街路に出ました。
「お忙しいんじゃありませんの。」と敏子は尋ねました。
「ええ、とても忙しいのよ。」
「そんなら、ただお寄りしただけですから、また……。」
「いいのよ。お茶でも飲みましょうよ。とても忙しいんだから、少しはゆっくり遊んだって、構わないわ。」
洋子は笑って、それからまだにこにこしていました。その側で、敏子はなんだか心が重く沈んでくる思いをしました。
コーヒーにちょっとしたお菓子の、狭い店がありました。その片隅に二人は席取りました。
洋子は眼をくるりと動かして、それを敏子の顔に据えると、揶揄するように言いました。
「結婚のお話、どうなったの。済んだの。」
敏子はただ頭を振りました。
「では、進行してるの。」
「いいえ、打っちゃってるだけ……。それよりか、あたし、昔のいろんなことが思いだされて、子供の頃に戻ったような気がして、どうしたのかしら……。」
「センチメンタリズム……。」
それをゆっくり言って、洋子は急に真顔になりました。
「
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