明らかに震えました。彼はその下僕にいいました。
「朱文が帰ったかどうか、見て来い。帰っていたら、すぐ連れてくるんだ。」
 その朱文は、前日の宴席の初めにちょっと列したきりで、一滄になにか囁いて退席してから、そのまま姿を見せなかったのです。そのことから、誰も皆、内心では異常なものを感じ取りながら、素知らぬ様子をしているのでありました。
 だいぶたってから、先程の下僕が現われて、朱文が帰ってきたことを告げると、張一滄はいくらか眉根を開いたようでしたけれど、朱文自身がなかなかやって来ませんので、その眉根には或る激しい色が濃く漂ってきました。
 そこへ、幼明がやって来て、静かにいいました。
「お父さま、なにか御心配なことでもありますの。」
 一滄は酔眼をぱっと開いて、泣くような笑顔をして、掌で上唇の髭をなでました。
「いやなんでもないよ。少し酔いすぎたようだ。」
 その顔を、幼明はじっと眺めて、また静かにいいました。
「朱文さんを、あまりお叱りなすってはいけませんわ。」
 一滄の眼に、ぽつりと涙が浮んで、彼はただ、無言のうちに幾度もうなずきました。それからまた酒杯を手にしました。

 朱文が、
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