知れない……とそんなことが、しきりに彼をせきたてるのだった。ところが家に帰ってみると、いつもの通りで、事件も人も電話もなく、何でもない手紙が二通きてるきりだった。
「電話も、どこからもなかったんだね。」と彼はくり返して尋ねた。
それでも、昨日から家を空けていたというその時間的な距りが、多少新たな気分をそそって、彼は書斎に坐ってみたが、中途で放り出されてる飜訳の先を読ける気にもならなかった。倦まず撓まない努力は、彼にはもう縁遠いものとなっていた。組織の弛緩……そんなことを彼はまた反芻してみ、キミ子はあれからどうしたろうかと、じりじりしてくるのだった。
そういうところへ柴田研三がふいにやって来たので、中江はちぐはぐな気持で逢った。柴田とはそれが二度目の応対だったが、中江の癖として、態度には鷹揚な親しみを見せた。だが柴田の方では、へんに警戒の態度で、言葉の真意が掴めないような話し方ばかりした。
「職工たちの空気が、次第に、不穏になってくるようですから、私も心配しています。」
だが、いかにも職工長らしい大きな身体を、更に大きな洋服にくるんで、どっしりとあぐらをかいてる彼の様子には、心配ら
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