をかみしめてしまったのである。その厚ぼったい肉体が、汗をかき、脂をうかせて、自分の熱気に喘いでるようだった。中江は何んだか息苦しくなるものを感じ、ふみにじられるような自分の心を感じて、彼女の言葉はうわの空できき流し、さっきの自分の気持に対して、ただわけもなく、嘘だ嘘だ、と胸のなかで叫んで、そんなら真実のものは何かと、ぼんやり考えるのだった。そして彼女の髪がぱらぱらと頬にさわると、我に返ったようにそっと身を引いて、窓の硝子からさしこむ明るい午後の光を、眼をしばたたきながら見上げるのだった。
「すこし、散歩なさらない、ねえ、先生……。」
 甘えたようなキミ子の言葉に、中江はいっぺんに引きずられて、ふらふらと立上ってしまった。紙入のなかを調べて、十円紙幣が一枚残っているのを確かめたのが、他人事のように感ぜられた。そして外に出ると、キミ子はもう籠から放れた小鳥のようで、フェルト草履の上に軽快に身を踊らし、その後から中江は、まるで盲人のように機械的についていった。

 中江の頭にはその印象がはっきりと残っていた。場所はよく分らないが、ごくゆるやかに湾曲してる街路で、そのカーブの内側の歩道を歩いていると、向う側の大小さまざまな建物の屋根の不規則な線が、まだ夕明りを湛えてる空をくっきりと切取ってるのが見え、その空には、奥深く晴れてる表面に、煙とも霧ともつかないものが、風に吹き起された埃のように流れていて、どこからともなく、まるで夢のように、雨の粒がぱらぱらと落ちてきてはまた止むのだった。その幾筋かの白い雨脚が、街路の暮色を際立たせて、物の輪廓がへんにぼやけ、向うから来る人の顔などは、よく見分けがつかなかった。だが、そのカーブの内側の歩道の向うからぽかりと浮出してくる顔のうちに、見覚えのあるのがあって、彼に――中江に――じっと視線を据え、次第に近寄ってき、誰だか分らないがたしかに知ってる顔で、それが、彼をみつめたまますぐま近になって、首をさしのべて覗きこもうとするほどのところで、すっと行き過ぎてしまった。振向くのも忘れて、はて……と真直を向いたまま考えていると、また、見覚えのある顔が出てきて、前のと同じだかどうだか分らないが、たしかに知ってる顔で、彼の方にじっと眼をつけ、次第に近寄ってき、覗きこもうとするほどのところで、すっと行き過ぎてしまう。そのとたんに、こんどは振向いて見ようと思うのだが、その勇気がなく、別に気恥しいことも後ろ暗いこともあるわけではないが、彼はそこの電柱にもたれて立止り、そのままずるずると腰をすべらして、屈みこんでしまったのである。水の底にでも沈んでゆくような感じだった。しいんとなる……。そして何だか大きな声がしたので、眼を上げると、あんまりよく知りすぎ馴れすぎてるキミ子の顔が、その温い息で、上から蔽いかぶさろうとしてるようだった。彼は突然立上って、さようならと、自分で諾くように軽く会釈をして、茫然と佇んでる彼女の手を取り、その街路のまんなかで、二三度強く打振って、それから、通りがかりの自動車にとび乗ったのである。
 そして彼は今、書斎にのんびりと寝ころんで、電燈の光の下で、ばらばらの紙片を、珍らしそうに調べるのであった。置戸棚の抽出の一つに、折にふれて物を書きとめた紙片が投げこまれていて、もうそれが随分たまってるのを、何ということもなく、取出してみたのである。短い感想や、詩みたいなものの断片や、単なる覚え書や、いろんな符諜や……よくもまあこの男は、役にも立たないものを書き散らしたものだった。全く訳の分らないものもあった。その代り、人前に出せないような秘密なものは一つもなかった。世間体を考慮する……というより寧ろ、本能的に体面を守って、怪しげなことは一切闇に葬ったのに違いなかった。だが第一、怪しげなことがこの男に何かあったろうか。ごく平凡な好人物で、怠惰が唯一の美徳であって、そのアナーキズム的な思想も、常識的空想の一つの現われに過ぎなかったのではなかろうか。外からの働きかけを適宜に受け容れるだけで、自分から動きだすことのなかったらしいこの男に、怪しげなことのないのは、当然だった。それでも、彼には――中江には――その書き散らしの紙片がへんに珍らしく、好奇心がもてるのだった。軽い微笑さえ彼の顔に浮んでいた。その反故《ほご》同然な紙片をめくってゆくうちに、ふと、もしこの男が死んでしまったら、これらの反故も何かの価値をもつかも知れない、などと考えるのだった。大抵の者は、何かしらに働いてるものは、死んだあとそれ相当の空虚を世に残すのであるが、この男は恐らく何の空虚も残さないだろうから、それだけにこれらの反故がこの男の存在に代って貴重なものとなるかも知れない、などと彼は考えるのだった。そしてそういう考えが彼に淡い慰安を齎すのだった。彼
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