」
そしてキミ子は、中江の顔色を窺いながら、話しだした。実はそのことについて、いろいろ話があるのだった。志水英子は、松浦久夫の使でやって来たので、さし迫って二十円の金がいるそうだったが、キミ子は持ち合していなかったので、中江に頼んだのだった。松浦のつもりでは、キミ子のところへ使を出して、実は中江を当にしてたのかも知れない、とそう云って、キミ子は肩をぴくりとさしたが、中江はただぼんやりと聞いてるだけだった。キミ子は話にみをいれてきた。――今日、正午すぎ、志水英子がまたやって来た。だめだという松浦からの知らせだった。N製作所のことについて、中江からいろいろ悉しく聞き知っていた松浦は、中江の伯父の没落について、そこに眼をつけたのだった。職工たちの動きはまるで予期とちがった方へ向いていった。職工長の柴田研三が、こんどの新たな経営者から、可なりの金を握らせられた、そのことが、どこからか職工たちのなかに洩れて、職工長はじめ役員等の排斥が初まって、運動はそれより先のことには進展しなかったのである。西田重吉等の中心闘士が、余りに近視的だったし、余りに熱情的だった。外部からの松浦の働きかけは、効果がなかった。そこへ、昨日の朝、突然に役員等の強硬策が現われてきて、有力な職工たちが検束され、運動は頓坐した。松浦は手を引かざるを得なかった。思想の違いは仕方がなかった。彼等には……と松浦は職工たちのことを云ってよこした……彼等には我等の組合、我等の階級という意識はあるが、我等の職場という本当の意識はない。彼等には権力の意識はあるが、労働の意識はない。彼等に対抗して、自分たちは、職場と労働との意識を明確に把持しながら、ゆっくり進むより外に仕方がない。――その松浦の言葉を、キミ子は暗誦していて、朗読でもするような調子で云った。
中江はキミ子の話にぼんやり耳を貸しながら、頭の中で、次第に明かになってくる映像を眺めていた。柴田研三が訪れてきた理由も大体分ったし、あの声の美しい冷たい女の輪廓もほぼ分ったし、松浦や西田の相反する動向も見当がついた。だがそれは、どんより曇った空の地平線の一角が晴れて、その向うの雲の奇峯が見えてくるように、何かもやもやと立罩めている頭脳の一部が晴れて、その向うの内壁をスクリーンとして、或る映画がうつってくるようなものだった。而もその晴れた部分は小さく限られ、絶えず移動して、次の映像がはっきりしてくるに従って前の映像は消えていくのだった。キミ子が話し終ると、彼はただ黙って首肯《うなず》いた。
キミ子は口を噤んで、中江の様子を窺っていたが、何等か熱烈な意志の動きが浮んでくる筈の彼の顔は、いつまでも不気味に静まり返り、はっきりとした意見を吐露する筈の彼の口は、軽く半ば開いて、白い歯並をみせているきりだった。むなしい沈黙が続いた。キミ子は突然叫んだ。
「先生!」
中江の眼が彼女の方に向いて、彼女はその中を見入ってるうちに、いつしか涙ぐんだ、それから急にそこにつっ伏して泣いた。
「先生は……あたし分っているわ……先生は、恋をしていらっしゃるんでしょう。うちあけて……うち明けて下さらなくちゃいや。」
中江はその肩に手をやっただけで、茫然と眺めていた。キミ子は愛のうちに感傷的に涙ぐむことはあったが、こんな時に、こんな泣き方をするとは、不思議だった。どうしたのかしらと中江は考えるのだった。自分の方がどうかしたのかしらとも考えるのだった。
キミ子は泣きやんで、顔をあげた。
「先生は……不幸な恋を、していらっしゃるんでしょう。」
涙をためてるその大きな眼を見ているうちに、中江ははっきりしてきた。
「そうだ、君はなぜ、自由に僕の家に来てくれないんですか。僕たちは、どうしてこう卑屈なんだろう……。」
彼女の眼からすーっと涙がひいて、黒目が底深く光っていた。そして彼女は彼の肩に縋りついて、ほんとう、それほんとう? と尋ねかけたのだった。卑屈なのは先生の方で、自分はどうなろうと構わないけど、それでも、先生には、恋愛なんかよりも、もっと大きな誇りがあるべきだし、もっと大きな仕事がある筈だ、と彼女は云うのだった。社会的な動き方をしてる者は、個人的な問題に煩わされてはいけないので、そういう意味から、先生はあくまで自由でなければいけないのだ、と彼女は説くのだった。先生にもし不幸な恋でもあるなら、そんなものは忘れてしまわなければいけないし、自分たちはあんまり弱かったから、これから強く生きる覚悟をしなければいけない、と彼女は云うのだった。そうした彼女は、社会運動に関係しながら、バーの女給をしたり、今では啓文社の校正部に勤めたりして、一人で男々しく働いてる彼女だったが、その彼女がいつしか自分で自分の言葉に涙ぐんで、中江の肩により縋り、じっと畳の上を見つめて、唇
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