け渡しした。その後で私は、自分が如何に卑屈であるかを感じた。私は両の拳を握りしめて、秀子の方を睥みつけてやった。彼女は其処に坐って、子供に乳を含ました。ごくりごくりと乳を吸ってる子供の上に、彼女は庇うように頬を押し当てていた。私は握りしめた拳をそのままに、自分の書斎へ逃げていった。
 二階にじっとしていると、階下《した》で子供の泣く声が聞えてきた。それを賺してる秀子の声もかすかに聞えてきた。乳の出が悪くなったのを、一人は泣き一人は困ってるのだ。私は堪らない気がした。
 その晩から、私は一人二階に寝た。私は凡てを失ってしまったのだ。秀子をもみさ[#「みさ」に傍点]子をも家庭をも愛をも。私の手に残ったものは何もなかった。然し私に残ってるものは唯一つあった。それは「彼女」――「理想の女」であった。永久に具体的な形を取ることのない女性だった。私はそれに囚えられてしまった。そして、あらゆる持続的な男女関係が恐ろしくなった。一人の女を守る時、私は必ずやその女を「理想の女」に照して眺めるに相違ない。然るに凡ての女は、たとえ恋した女でも、私にとっては「理想の女」の仮象に過ぎない。仮象はやがて本物のため
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