が実際眼をやると、其処には誰も居なかった。理想の女に似もつかぬ幾多の女性が、あちらこちらに往き来していた。……然し、私にとっては、彼女等は凡て仮象に過ぎなかったのだ。私にとって真に現実なのは、眼に見えない「理想の女」のみだった。眼には見えないが、何処かに、すぐ近くに、立っているような気がした。
なるべく影の多い奥まった所を、誰かが――彼女が立っていそうな所を、私は覗き込みながら歩き続けた。
「うううう、」と何かが唸るような声がした。私は喫驚して立ち止った。私は或る神社の境内にはいって、ぼんやり歩いてるのであった。声に驚いて眼を挙げると、紺絣を着た十六七の男が赤坊を負《おぶ》って、私の前に立っていた。彼はまた「うううう、」と唸りながら、私の手を指し示した。見ると私の手には、火のついた紙巻煙草があった。これだなと私は思った。そして袂から煙草を一本取り出して、若者に与えた。彼はそれを黙って受取ったが、また「うううう、」と唸った。私はその顔を見つめた。彼はきょとんとした眼付で、私の手の煙草を見つめながら、変に先の曲った指で、煙草の火を指し示した。私は煙草の火を差出そうとしたが、思い直して、マ
前へ
次へ
全79ページ中72ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング