方を見ると、彼女は子供に乳を含ましたまま、いつしか居眠ってるらしかった。
 私は立ち上って、押入から枕を取り出した。そして押入の襖をしめる時、注意した筈だったが、つい力が余って大きな音がした。秀子はむっくり半身を起した。そして、「静かにして下さいよ、」と云った。
 その言葉の調子が如何にも冷かに憎々しかった。私は癪に障った。それで、また例の通りだとは思いながらも、其処にどたりと枕を投《ほう》り出して、わざと大きな音がするように寝転んでやった。
「赤ん坊が眼を覚すじゃありませんか。」と秀子は云った。「眼が覚めたら寝かして下さいますか。」
「ではなぜ枕を取ってくれないんだい。」と私は答えた。
「それ位御自分でなさるが当り前よ、私ばかりを使わなくったって……。」
「じゃあお前は、いつも使われてる気で僕の用をしてるのか。心からこうしてあげようという気はないのか。」
「では御自分はどうなの。子供で手がふさがってるからという思いやりは、少しもないんですか。」
 そういう水掛論が喧嘩の初まりだった。然しそれは具体的な事実を離れて、お互の態度に及ぶ抽象的な問題になったために、どちらも云いつのるだけでは
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