切ってしまった。室の真暗な中に、私は一人置きざりにせられたような気がした。その時電気が来た、俄に明るくなった。私達は互の視線を避けた。すると――ああ、女のでたらめな口先よ!――秀子は急にこう云った。
「硝子をはめさしても宜しいんですか。」
「はめないでどうするんだ!」と私は答えた。
「じゃあなぜ早く仰言らないの。」
「お前の方が黙ってるじゃないか。」
何だか馬鹿々々しかった。馬鹿々々しい気持ちが動いてきた。そして、それが喧嘩の終りだった。私達はまた口を利き出した。万事が平素の状態に返った。その上、この余りに妥協的な不自然な和解は、感覚の陶酔によっても助けられたのである。
斯くて私の決心は、いつのまにか泡沫のように消え去ってしまった。消え去るのが当然だった。私の内心は寧ろそれを望んでいたのだから。私にとっては、彼女の性質を矯正したいという欲求よりも、彼女を所有したいという欲求の方が、より直接でありより強いのであった。そして彼女を殴ったことによって、私は終局彼女に武器を一つ多く与えたのみだった。
秀子は私に右の頬を殴られてから、その奥歯が痛んで止まなかった。――彼女は美事な歯並を持っていた。上下揃った細い真白な歯並で、而も下歯が上歯の奥にはいり込んで合さるということがなかった。上歯の先端と下歯の先端とがいつもかち合っていた。そのために、物を食べる時奥歯を噛み合せるのに、口元へ可愛らしい皺が寄った。またそのために、平素唇が薄く細そりして見え、その唇の仇気ない子供らしい微笑の隙間から、上下揃った美事な歯並が覗き出した。なおその上、右上の糸切歯に金が被さっていた。普通は、糸切歯が虫に腐蝕されることは極めて稀であるが、彼女は真先に糸切歯がやられたのである。彼女にとってはそれが偶然の天恵だった。美わしい歯並の奥からぴかりと黄金色に光る糸切歯は、彼女の微笑みに云い知れぬ魅力を与えていたのである。それは兎に角として、この糸切歯から一枚飛んだ奥の下歯が、以前から虫に蝕されていた。時々痛み出すこともあった。然しいつもすぐによくなった。所が此度は、三四日たっても痛みが止まなかった。「あの晩からよ、」と彼女は云った。私は冷りとした。そして無理に歯医者へ通わした。
歯医者の言葉に依れば、その虫歯は可なりひどくなってるので、セメンをつめ金を被せるのには、二週間余りかかるとのことだった。その間彼女は、初めの一週間は毎日、後の一週間余は一日置きに、文字通り神経をすりへらす手術を受けなければならなかった。神経質な彼女はそれを非常に苦にした。出かける時には、つまらない用事に愚図々々こだわって、なるべく時間を後らそうとした。帰ってくると、眉をしかめながら碌々口も利かないで、数時間じっとしてることさえあった。それから非常に上機嫌になったり不機嫌になったりした。それがまた一々私に反映した。
九時頃に起き上る。もう朝食の用意は出来ている。私は急いで朝の身仕舞をする。然しそれはごく簡単だ。歯を磨き、顔を洗い、髭を剃り、クリームを顔と頸と手先との皮膚にぬり、髪に櫛を入れる。それだけだ。然し秀子の身仕舞は中々済まない。第一に髪を結わなければならない。(感心に彼女は自分で髪を束ねて、決して人手を借りなかった。)次には長い長い御化粧が初まる。歯医者へ通うので殊に念が入るのだ。細いしなやかな指先を、顔や頸筋へ蛇のようにのたくらせながら、何時までも鏡台の前から立とうとしない。そのうちにみさ[#「みさ」に傍点]子が泣き出す。はる[#「はる」に傍点]は座敷の掃除やなんかでまだ手がふさがっている。私は危っかしい手付でみさ[#「みさ」に傍点]子を抱いて、家の中をよいよい歩かなければならない。漸く秀子の身仕舞がすむ。彼女は鏡台の前に肌ぬぎになったまま、啜り泣いてる子供に乳房を含ませる。その間私はぼんやりして、縁側から狭い庭でも眺めるか、または寝床の中でざっと眼を通した新聞を、も一度読み直すかするより外はない。それから漸く食事になる。食事が済むと十一時に間もない。秀子は急いで歯医者へ出かける。午後は患者が込むので午前に出かけるのだ。然し随分帰りが後れることもある。みさ[#「みさ」に傍点]子が乳をほしがって泣き出す。私の危っかしい「よいよい」がまた初まる。子供は笑ってるかと思うと泣き、泣いてるかと思うと笑っている。その可愛いい口に唇づけすると、私の唇をちゅっちゅっと吸う。たまらなく可愛くなる。それでも、秀子が帰ってくると、私はすぐに子供を奪われてしまう。「おうよしよし。」と云って彼女は子供に頬ずりをする。私は黙ってそれを傍観するのだ。乳母を雇わないで自分の乳で子供を育てる彼女の気持ちが、私にも分るような気がする。それが私を苦々《にがにが》しい気分になす。そのうちにまた昼食だ。朝が遅いので、
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