るのを見た。それに反して、私の方には非常に明晰な意識が働いてるのを見た。私は堪らなくなった。そして彼女の狂暴な手を払いのけるや否や、ぷいと外に飛び出した。子供の泣き出す声が後ろから聞えていた。
実に嫌な――というより寧ろ醜い心地だった。彼女を殴りつけてる瞬間の自分の姿が、如何に呪わしい様子であったかを私は感じた。「随分大きな口ね、」と彼女からよく云われていたその口が、殊に大きく裂け上り、鼻が頑丈に居据り、両眼が真中に寄っていたに違いない。握りしめた拳は震え、呼吸は気味悪いほど深く抑え止められていた。そして、そういう私が飛びかかっていって殴り倒したのは、「彼女」をでなくて「彼女の肉体」をであった。柔かな円っこい弾力性のある、海綿を水母《くらげ》に包んだような而も生温い香りのする、「彼女の肉体」をであった。その肉体の背後には、執拗な「彼女」がつっ立って、あくまでも私に反抗しようとしていた。私の手先にしがみつき、私の着物の裾に取りついて、瞋恚の爪を私の胸に立てようとしていたのだ。私は逃げるより外に仕方がなかった。逃げる――と云えば、私は初めから逃げ出していたのだ。切瑞つまった場合になると、暴力が最後の避難所となることもある。私は拳を振り上げた時、「も一度云ってみろ!」と叫んだ時、彼女が折れて出ることをどんなにか待っていたろう! 恐れ入ったという色を一寸見せてさえくれたら……もう止して下さいという様子を一寸見せてさえくれたら……振り上げた拳の下から一寸身を引いてさえくれたら……私の気はそれで済むのであった。然し彼女はそうしなかった。あべこべに私の気勢を上から押っ被さって折り拉ごうとした。それでも私は、拳をすぐに打ち下さないで、少し手を引いて、ただ彼女を押し倒そうとしたのである。然し彼女はそんなことに頓着しなかった。真正面から私に向って突進してきた。凡ての期待は空しくなった。私は逃げ途を失った。もはや一方の血路を開くより外に仕方がなかった。私は殴りつけた。蹴飛した。而も、私が其処に打倒したものは「彼女の肉体」であって、「彼女」はあくまでもいきり立って私に飛びついて来たではないか!
そういう彼女を、一歩も譲ることを知らない彼女の心を、是非とも挫いておく必要があると私は考えた。そうでなければ、まだこれから幾度も同じことが起りそうだし、その度毎に私は困難な立場に陥りそうだったのである。些細なことから私達は口論をすることがよくあった。二三日後まで反抗的な沈黙を守るほど激しい口論も、何度かくり返されていた。所が此度そういうことが起ったら、もう掴み合いに終るの外はないように思われた。幾度も抑えに抑えられた暴力が、既に飛び出した後だからである。而もそういう暴力の結果はどうであるか? 責任が私一人にかかってくるのみである。彼女は「女である」という便利な楯を持っている。一歩も譲らないで私につっかかって来たこと、不条理に苛ら立ってきたこと、そういう微細な――実は最も重大な――問題は、「殴られた」という事実の背後に影を潜めてしまう。そして「殴った」という責任が全部私の上にのしかかってくる。喧嘩の瞬間には、男も女も対等に――否多くは女の方がより攻勢的に――相対抗するものであるということを是認しても、殴る殴られるという結果の差は、溯って男を非難しがちである。動機の如何に拘らず、強い方が不当だと常に結論されがちである。私はそういう不条理な損害を受けたくない、そういう危い境地へ踏み込みたくない。それには、彼女に折れ屈むことを教えて置かなければいけない。彼女の心を挫いて置かなければいけない。
憤激の余り私は右のように考えた。然しこの決心は如何に根の浅いものであったか! 私は頭で到達した帰結に満足して、それを胸の奥に移し植えるだけの労を取らなかったのである。
二日間、私達は互に口を利かなかった。その間私は、一方では秀子に対する憤りを無理に自ら煽り立てながら、一方では秀子が我を折ってくるのを待ちあぐんでいた。
二日目の夕方――その日は冷たい雨が午後から降り出していた――私は、まだ電灯もつかないのに、秀子が縁側の雨戸を閉めているのを見た。室の中が真暗になりそうだった。
「もう少し開けとおき!」と私は尖り声で云った。
「みさ[#「みさ」に傍点]子が風邪をひくじゃありませんか。暗くても温い方がよござんす。」と彼女は答えた。
私が枕を投って壊した障子の硝子は、まだそのままになっていた。私への見せしめか知らないが、彼女は新たに硝子屋へ頼むこともせず、または紙をはって一時の間に合わせることもしなかった。ぽかりと口を開いてる四角な穴からは、冷かな空気が流れ込んでくるようだった。
「硝子をはめさしたらいいじゃないか。」と私は云ってやった。
秀子は何とも答えないで、雨戸を閉め
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