ッチをすってやった。若者は煙草に火を吸いつけると、その煙草をすーっと吸い込みながら、「うー、」と長く引いた音を喉から出した。私が黙っていると、彼はまた「うー、」と云った。私は嫌な気がしてふいと立ち去った。後ろから、「うー、」という唸り声が追っかけてきた。私は足を早めた。
暫く行ってふり返ると、もう其処には誰も居なかった。
然し、その盲目的な唸り声が、いつのまにか私の心にはいり込んでいた。私は「うー、」と唸ってみて、自分でも喫驚した。そしてその後で、妙にぽかんとしてしまった。何かに憑かれてるような自分を見出した。街路をやたらに歩き廻りながら、「うー、うー、」と心で唸ってみた。何だか可笑しかった。と同時にまた、自分が顔が今にも泣き出しそうに歪められてるのを、私は意識していた。どうにもならなかった。どん底まではいり込まなければ承知出来ないような気がした。
私は或る料理店へよって、酒を飲んだ。無理に酔っ払おうとした。女中の口先に乗ってうつかり菊代を名指してしまった。菊代というのは、私が市内を彷徨してるうちにいつしか顔馴染になった妓《おんな》で、一二度機会があったにも拘らず、私は深入りするのを避けていたのだ――秀子のために。
菊代が来ると、私は妙に苛立ってきた。やたらに彼女へ杯をさしつけた。重苦しいへまな冗談口を盛んに利いた。しまいにはその三味線を奪い取って、変な手附で「一つとや」を弾き出した。自分自身が滑稽だった。滑稽を通り越して泣きたかった。「松飾《まつかざ》りーい、松飾り、」の所へ来て手を忘れた。つかえてしまった。私はぴんと三本の絃《いと》を引き切ってしまった。
「まあ、何をなさるのよ。」と彼女はつめ寄ってきた。
眼瞼の薄い小賢しい眼が、妙に黝《くろ》ずんだ光りを帯びて、緊りのない脹れっぽい顔付に、一寸敵意らしい険が漂っていた。私はその顔を見つめた。
「僕は今晩は帰らないよ。」と私は吐き出すようにして云った。
彼女は一寸瞬きをした。次の瞬間には妙に荒々しい素振りになっていた。
「卑怯な方ね!」と彼女は云った。「帰ろうたって、もう帰すものですか。」
彼女は酔っていた。私も酔っていた。それから私達は、別の奥まった家の狭い室で、時間過ぎの酒を飲み初めた。自分自身の魂を踏み躪りたいような、また妙に冷たい敵意のある意識が、ちらりと起きかけるのを、私はむりやりに酔いつぶしてしまった。酔いつぶれると、ただ空虚な渦巻きの世界のみだった。
翌朝遅く、爛れた舌を鍋の鳥で刺戟しながら朝食を済すと、私は菊代に碌々挨拶の言葉もかけないで、慌しく其処を飛び出した。空が晴れていた。明るい日の光りの下で、自分自身が堪らなく惨めに思えた。凡てが穢らわしく呪わしかった。そのくせ意識がぼんやり曇っていた。何か忘れたものがあるようだったが、それがどうしても思い出せなかった。
私は他人の家へでもはいるような気持ちで、ぼんやり自家の門をくぐった。
所が、其処に出て来た秀子の顔を見ると、私のうちにむらむらと反抗の気分が湧いた。彼女はお帰りなさいとも云わないうちに、冷然と、それでも眼を伏せ唇をかみしめながら、真先にこう云った。
「男の意地って下らないものね。」
私が叔父の家へ泊ったことと彼女は思ってるのだ、そう私は推察した。そして云ってやった。
「何が下らないんだ?……叔父の家へなんか泊るものか。」
「そうでしょうとも。」と彼女は答えた。「どうせ、穢ならしい狭苦しい家なんでしょうよ。」
彼女は顔の筋肉一つ動かさなかった。私は彼女から極端な蔑視を受けてることを感じた。然し咄嗟に言葉が出なかった。そして一寸間が途切れると、もう何も云うべきことが無かった。私達は黙り込んでしまった。
私は頭と身体とが困憊しきっていた。二階に上って、椅子にかけたままうとうとしながら、凡てを忘れてしまおうとした。頭が茫として力が無かった。訳の分らない象《すがた》が入り乱れて、白日夢を見てるような気がした。……と、私ははっと我に返った。縁側に、障子の向うに、誰かがしょんぼり伴んでいた。それがはっきり見えてきた。「彼女だ!」と私は心に叫んだ。すると、その姿は煙のように消えてしまった。私は心乱れながら、縁側に出てみた。明るい日の光りが、大気のうちに一面に漲っていた。私はその真昼の明るみの中に、取り失った姿を探し求めた。菊代のことが頭に映じてきた。そして昨夜のことが……それは、噫、「彼女」を心に描きながら行った自涜行為に過ぎなかった。私は庭の方へ、かっと唾をした。その後で、堪らなく淋しく悲しくなった。
私は不快と寂寥との余り、昼食も取らなかった。湯に行ってみると、蒼い血管の浮いて見える自分の肉体が惨めで汚く思われてきて、すぐに飛び出してしまった。外を歩く気にもなれなかった。家にじっとし
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