一言云ってやりたかったが、言葉が見つからないうちに、私の身体はもう玄関を出ていた。私は真直に叔父の家へ向った。
それは、恋人に逢いに行くような気持ちでもなければ、恋人の写真を見に行くような気持ちでもなく、何だか神秘なものを覗きに行くような感じで、而も捨鉢な気持ちだった。私は途中から電車を捨てて、辻俥に乗り、幌をすっかり下した。
叔父と叔母とは、僅かな財産を一生のうちにゆっくり食いつぶす覚悟で、ただ隙つぶしに漢学の僅かな弟子を取るだけで、小さな借家に閑散な日を送っていた。私が訪れると、丁度二人共在宅だった。
私は随分長く姿を見せなかったことを詑びた。然し二人はそんな疎遠不疎遠などを頓着するような人ではなかった。私が顔を上げると、いきなり叔父はこう云った。
「やあ随分痩せたようじゃないか。どうしたんだい。顔の色も悪い。」
私は種々なことを尋ねられそうなのを恐れて、すぐこう切り出してみた。
「実は急な用で上ったんです。千代ちゃんの写真を一寸見せて下さいませんか。」
私は自分でも少し声の震えるのを感じたが、叔父は気付かないらしかった。
「千代子の写真、妙な物に用があるんだね。死んだ者は仕方がないじゃないか。……おい出しておやりな。」
私は叔母の方へ云った。
「よく似た人が居るものですから……。なるべく新らしいのが見たいんです。一枚だけで沢山です。」
叔母は手文庫の中から、最近の――死ぬ学年前の写真を取り出してくれた。私はそれを手に取って、眼をつぶったまま膝の上で披き、そしで眼を開いてみた。
ああその時私は、どんなに驚き、次には冷たくなり、次にぼんやりしてしまったことだろう。千代子の顔は、「彼女」――否「理想の女」とは、殆んど似もつかぬものであった。半身を少し斜にした姿が、肱掛椅子にかけ、手には扇を持っていた。その顔をよく見ていると、なるほど見覚えのある親しい点が一つ一つ出て来た。それは千代子に違いなかった。斜め左から両方へ分けられた髪が、冷悧な広い額を半ば隠していた。眉尻が心持ち下り、眼尻が心持ち上っていた。はっきりうち開いた眼の中に、艶やかな瞳が上目がちに置かれていた。下唇が殆んど目につかない位に歪んで、軽く上歯に噛まれてるような心持ちを与えていた。額から細り加減に落ちている双頬の線が、奥歯のあたりで一寸膨らんで仇気なさを作り、細い三角形の頤に終っていた。そういう顔の真中に、小鼻のよく目立つ細い鼻が通っていた。……私はそれらに皆見覚えがあった。そして其処に、親しい千代子の姿がありありと浮んできた。然しそれは、私の幻とは全く異っていた。どう異っているかを私は指摘することが出来なかった。全体の気持ちが全く異っていたのである。そして私の彼女は、理想の女は、再び空漠たる所へ消え失せてしまった。私の手にはありし日の千代子の実際の姿だけが残った。
「どうしたんだい、大変ぼんやりしてるじゃないか。」
そういう叔父の言葉に、私は初めて我に返った。そして何を云ってるのか自分でもよく分らない言葉を、叔父と叔母とに交したまま、私は急いで辞し去ってしまった。
凡ては惑わしだったのだ。然し私は、この幻滅に対してどう身を処していいか分らなかった。千代子は消え失せたけれども、「理想の女」は残存していた。そして、それは一つの焦点を失ったがために、一の像《イメージ》でなくなって影となったがために、私の前後左右至る処につっ立ってるような気がした。街路の曲り角、並木の下、電柱の横、奥まった扉口、凡そ人が身を寄せ得る処ならどんな処にでもじっと佇んでるような気がした。而も私が実際眼をやると、其処には誰も居なかった。理想の女に似もつかぬ幾多の女性が、あちらこちらに往き来していた。……然し、私にとっては、彼女等は凡て仮象に過ぎなかったのだ。私にとって真に現実なのは、眼に見えない「理想の女」のみだった。眼には見えないが、何処かに、すぐ近くに、立っているような気がした。
なるべく影の多い奥まった所を、誰かが――彼女が立っていそうな所を、私は覗き込みながら歩き続けた。
「うううう、」と何かが唸るような声がした。私は喫驚して立ち止った。私は或る神社の境内にはいって、ぼんやり歩いてるのであった。声に驚いて眼を挙げると、紺絣を着た十六七の男が赤坊を負《おぶ》って、私の前に立っていた。彼はまた「うううう、」と唸りながら、私の手を指し示した。見ると私の手には、火のついた紙巻煙草があった。これだなと私は思った。そして袂から煙草を一本取り出して、若者に与えた。彼はそれを黙って受取ったが、また「うううう、」と唸った。私はその顔を見つめた。彼はきょとんとした眼付で、私の手の煙草を見つめながら、変に先の曲った指で、煙草の火を指し示した。私は煙草の火を差出そうとしたが、思い直して、マ
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