た。私は歩き続けた。彼女の耳の後に垂れたほつれ毛が、堅くなって震えるのが見えた。「お寝みったら!」と私は三度云った。「あなたお寝みなすったらいいでしょう、」と彼女は答え返した。私はなお室の中を歩き続けた。それからまた椅子に坐った。自分の心がまた彼女の心が、最も悪い状態にあるのを私は感じた。私はじっと彼女の姿を見つめてやった。反感が、殆んど完全と云ってもいいほどの敵意が、私の身内を震わした。その時私が飛び掛って彼女を殴りつけなかったのは、彼女が寝間着一枚の素足のままで石のように固くなってるからであった。
「勝手にするがいい!」
そう私は云いすてて、階下へ下りて行った。みさ[#「みさ」に傍点]子はすやすや眠っていた。私は堪らなくなって、着物のまま蒲団の中へもぐり込んで、夜着を頭から被った。頭が熱くなっていて、足先がぞくぞく冷たかった。傍の蒲団の中に寝ている秀子の姿を見出したのは、翌日眼を覚してからだった。
そして、私達は朝から口を利き出した。然しそれは、如何に冷かな用件のみの言葉だったろう! 二人の間に深い溝が掘られたことを、私は感じた。激しい喧嘩の末、私達は二三日言葉を交えないことがあったが、それでもそういう反目は、お互に一つの根で繋ってるという意識から来る苛ら立ちで、繋りながら争ってるという苛ら立ちで、助長せられたものであった。所が今や、二人を結びつける根が断たれたような冷かさが、互に別個なものになったというような無関心さが、二人の間に挾まってきたのである。濡いのない言葉――感情の籠らない言葉を、互に時々交しながら、或る破滅を期待する恐れで、心を固く鎖していた。
それが私には堪え難かった。家庭に於ける彼女の圧迫から来る息苦しさは、前方に破滅を予期する息苦しさに変っていった。而も彼女の弁解――あの場面《シーン》の中心問題――に再び触れることは、益々お互の心を遠ざけるもののように感ぜられた。「どうにでもなるようになれ!」そう私は半ば悲壮に半ば捨鉢に考えては、やはり外へ飛び出すのであった。私の心の底に、彼女と別れてそう惜しくはないという気持ちが流れているのを、私はまだ気付いていなかった。家に帰って来ると或る不安な恐れが私を囚えた。然し彼女は家の中に澄し込んでいた。道子のことをも再び云い出さなかった。
私の足は長谷川の家から次第に遠のいていった。人から疑われることによって却って心が唆られる例は、よくあるものだけれど、私にはそういう暗示は更に働かなかった。余りに馬鹿々々しい気がした。問題は道子一人に在るのではないような気がした。そうだ。道子もその中の一人ではあったが、問題は道子一人に在るのではなかった。それでは誰に?……自ら尋ねてみて私は駭然としたのである。
市内を彷徨してるうちに、私の眼は行き逢うあらゆる女に向けられていた。而もそういう私の眼は単なる路傍の人を見る眼とは違っていた。あらゆる異性の方へしたい寄る青春期の眼、慌しい而も執拗な、恥かしげな而も厚かましい、内気らしい而も露骨な、自分と相手とをすぐに真赤ならしむるような熱っぽい眼、それと同じものだった。私は自ら知らないで、眼の前を通り過ぎるあらゆる女の、髪の匂い、眼の輝き、唇の色、頸筋の皮膚、胸の脹らみ、腰の曲線、足の指先、などを臆面もなく而もひそかに窺っていた。その上、異性をよく知ってる私の眼は、青春期の童貞の夢幻的な眼よりも、相手の各局所を評価するのに鋭利だった。それだけにまた、私の眼には享楽的な実感が濃く裏付けられていた。
問題は誰に在るかを自ら尋ねてみた時、私は初めて右の事実に気付いたのだった。秀子の嫉妬は、或る意味に於て至当だったのである。私はあらゆる女性に、心を――恋愛的な心を寄せていたのだ。あらゆる女性を対象として、現実的気分で塗られた恋愛を空想していたのだ。私の愛情は一人の女を離れて、少くとも心持の上だけでは、あちゆる女の上に分散させられていた。危険と云えば、凡ての女が危険だった。長谷川道子も、友人の妻君も、電車に乗り合した令嬢《ミス》も、劇場の廊下で行き合う夫人《マダム》も、カフェーの女給仕《ウェートレス》も、年若くて或る種の容姿を具えている以上は、皆危険だった。
省みてこのことを気付いた時、私の驚きは如何ばかりだったろう! それは殆んど狼狽にも近かった。私は自分を取り失ったような気がした。妻に集中すべき愛情が一般女性の上に散り失せるということは、良人として最も悪い状態に違いない。而も、妻を殴りつけ市内を彷徨していながらも、遊里に夜を明かさないことをひそかに矜りとしていた私だったのだ。
私は恥しかった。自分の心を制しようとした。然しそういう努力の結果はなおいけなかった。私の遊蕩的な眼は、なお頻繁にあらゆる女性の上に向けられ、また一方秀子の上にも向
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