行くのかと秀子は尋ねだした。私が夜遅く帰ってくると、翌朝になって、昨日は何処へ行ったのかと彼女は尋ねだした。私は気にもかけなかった。気持ちの和らいでる時には、和らいでいない時にも大抵は、何処から何処へ行ったと明かに答えてやった。少しく曖昧な点があると彼女はなお追求してきた。私は更に詳しく答えてやった。余りうるさくなると、こう答えた。
「でたらめに歩き廻ったことを、そう詳しく覚えてるものか。」
彼女は口を噤んだ。
不機嫌な時には、私はこう答えた。
「煩い。何処へ行こうと僕の勝手だ。」
「では私も勝手な真似をしますよ、その時になって愚図々々仰言らないようになさい。」
と彼女は答え返した。
心が陰鬱に沈み込んで、気分だけが妙に緊張してる時に、私は暫く黙ってた後、こう答えた。
「放っといてくれ! 僕は少し一人で考えたいんだ。」
すると彼女は、俄に顔を引緊め、眼を横目勝ちに見据えて、室の片隅を睥んだ。いつまでもじっとしていた。私は少し変な気がした。
「何を考えてるんだ。」と私は云った。
「何でもよござんす。私にも考えがあります。」
彼女はやはり身動きもしなかったが、やがてふいと立って行った。そして向うの室で、女中の手からみさ[#「みさ」に傍点]子を抱き取ると、やけにゆすぶりながら室の中を歩き廻ってるのが、如何にも私への当てつけらしかった。
私はそういう彼女の様子が、どう考えても腑に落ちなかった。何か新たな心理が彼女のうちに動いてることは分ったが、それが何であるかは分らなかった。そして結局、彼女の心に芽したものが何であろうと、私の方が一歩優勢になったことだけは確かだった。私はこの意外な結果に満足した。そして更に決定的な勝利を得んがために、殊更沈思を装い、出先を曖昧にしながら、一層頻繁に市内を彷徨し初めた。そういう方法によって、彼女の気勢を挫き、家庭内に自分の権力をうち立て得たら、凡てがよくなるだろう、彼女と私との間もよくなるだろう、と私は考えていた。私は球突場へ通った。碁や将棋を初めた。活動も見て歩いた。時には夜遅くまで酒を飲んだ。妓を呼ぶこともあった。飽きると友人の家に寝転んで、無駄話に耽った。ちいさなハナをひいたり、トランプの空遊びをした。そして、遊惰というものは妙なものである。初めはいつも陰鬱に曇っていた私の心が、非常に華かになったり、非常に陰惨になったりした。浮々した気持が何処までも私を運んでゆくかと思うと、急に真暗な穴の底へ陥ったような心地になった。そういうどん底の気分の時には、私はよく長谷川を訪問した。長谷川は近頃文壇に名を出した新進作家で、妹の道子も将来女流作家となる筈――本人の心では――であった。家の中の空気が何処となく爽かでまた落付いていた。彼等二人の話を聞いていると、私の心へも清澄な光りが射してきた。自分も勉強したような気が起ってきた。そしてすぐに家へ帰った。然し、家の閾を跨ぐと、私の心はまた陰鬱になるのであった。
或る日――その午后に私はまた秀子と喧嘩をした。初めは何でもないことだったが、いつもとはだいぶ調子が異っていた。みさ[#「みさ」に傍点]子が少し風邪の気味だった。熱を測ると七度一分あった。「大丈夫でしょうか、お医者に診せないで、」と秀子は云った。「七度二分までは発熱と云えないそうじゃないか、」と私は答えた。暫くすると、「大丈夫でしょうか、」と秀子はまた云った。「大丈夫だ、」と私は事もなげに答えた。そういう問答の後に、私は縁側の障子を開け放って、南を一杯受けた日向に寝転んだ。彼女は私の不注意を責めた。私はうっかり一二言答え返した。彼女はすぐにつっ込んできた、「子供の風邪がひどくなったら、あなたが責任を負って下さるのね!」私は一寸あわてた。「でたらめなことを云うな、」と投げやりの調子で答えた。彼女は私の顔をじっと見た。「あなたは、この頃ちっとも子供を可愛がりなさらないのね、」と彼女は云った。云われてみると多少は当っていた。子供の側にくっついてることが、私には次第に少くなっていたのだ。私は話の方向を変えるために、別のことを云った。「お前は、ただ子供をだけ愛してる。それが本当の愛かも知れないよ。然し僕は……子供を愛する時は、お前をも愛してる時なんだ。」云い方が悪かったのだ。彼女はすぐに結論して私に迫った。「では、あなたはこの頃私を愛して下さらないのね。」彼女の云う所は、いつになく論理正しく鋭利だった。私はたじたじとなった。癪だった。「お前はどうだ、」と反問してやった。「私のことを云ってるのではありません、」と彼女は私を撃退した。「お前は子供だけ育てれば、それでいいと思ってるんだろう、」と私は云った。「あなたは私に子供だけを与えておけば、それでいいと思っていらっしゃるんでしょう、」と彼女は云った。議論は
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