えることが出来なかった。秀子との会逅、其後の熱烈な恋愛、父母や親戚の人々の非難と反対、それを断乎として郤けつつ払った犠牲、遂に自由恋愛を貫き通した結婚、それまでの経路を回想してみると、私は其処に何等必然的なものを認めなかった。凡てが偶然のうちに運ばれたもののように考えられた。それならば、周囲の障碍をあれほど力強く突破してきた私の意志は、一体何であったか、何処から出て来たのであったか? それは単に青春の空想と悲壮な感激性のみだった。それは凡て私のうちに在ったもので、秀子と私との間の必然ではなかったのだ。秀子でなくともよかったのだ。他の如何なる女性ででもよかったのだ。そしてたとえこういう考えは時の距りと現在の心の状態とに欺かれてるものであるとしても、今眼前に居る秀子は、果して私が一生の伴侶として満足し得らるる女性であるか? 否。それでは、私は一生を不満のうちに終るか、または妻というものに対するあらゆる要求を捨て去るか、二途の外はないのである。……秀子と別れる! 私はその考えを押し進めることが出来なかった。恐ろしかった。余りに恐ろしかった。そして私の前には、ただ選択を誤ったという事実のみが残された。
 選択を誤ったのならば、何処かに本当の選択が残されてる筈だった。私は秀子と別れるという考えをはっきり意識せずに、結果を予期せずに、残された選択を探し廻った。街路を彷徨する私の眼は更に執拗になっていった。ああ、理想の女を探し求める、それほど馬鹿げたことがあるだろうか! 理想は常に理想として止るのだ。それは単に吾々の方向を指示するだけで、到達せらるる距離に在るものではない。然し私はそんなことをはっきり考えなかった。運命づけられた「自分の半分」の存在を、現実に信じていたのである。失望は当然だった。私は如何なる女にも理想の女を見出さなかった。そして更に悪いことには、秀子よりもよりよく理想の女に近い者を、多くの女に見出したのである。
 昏迷しきった気持ちで夜遅く帰って来ると、秀子は子供に添寝しながら、鎖骨のとび出た胸をはだけたまま眠っていた。もしくは眠ったふりをしていた。朝眼を覚すと、彼女は自分の蒲団に戻っていたが、額には四五筋の髪の毛が、ねっとりとこびりついてることがあった。夜中に夢にでも魘《うな》されたのだろう。その髪も産後の抜毛に薄くなって、生え際が妙に透いて見えた。起き上って髪
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