彼女は俄にいきり立った。そして「私に恋人があること」を、遠廻しに立証していった。私が始終出歩いてばかりいること、家に居ても様子に落付きがないこと、然し遊蕩を初めたのではないこと、なぜなら、酒気を帯びて帰ることも稀であるし、一晩も外泊して来たことがないから、そしてまた、女は子供を育てるのみが務めではないとよく云ってること、いやに何かを考え込んでばかり居ること、出かける時の慌しい様子のこと、みさ[#「みさ」に傍点]子に対して冷淡な素振りが多くなったこと、だから、「誰かに恋し初めてるに違いない。」という結論に達するのであった。
私は云った。
「ではお前は、僕とお前との愛について僕がどんなに苦しんでるか、それを少しも知らないのか。」
彼女は答えた。
「苦しんでは長谷川さんなんかの所へばかりいらっしゃるんでしょう。」
私はつと身を起した。長谷川の妹のことを、道子のことを、彼女は考えていたのだ。
「お前は道子さんのことを考えてるんだね!」と私は叫んだ。
「いいえ、道子さんとは限りません。」
「馬鹿なことを云うな!」私はそれを押っ被せて云った。そして、長谷川の家へ屡々行くのは、いつもいい意味の気分を与えられるからであること、道子さんに対しては嘗て愛を感じたこともないし、これからも愛を感ずる恐れは決してないこと、第一文学なんかをやろうという女と恋することは、自分のような寧ろ家庭的な男には適しないこと、自分が長く苦しんでいるのも、自分のうちに家庭的な気分が濃いからだということ、そんなことを考えると道子さんにどんな迷惑を及ぼすか分らないこと、などを私は急き込んで説き立てた。
「どうだか、今に分ることですわ。」と彼女は答えた。
私達は口を噤んだ。問題の中心にぶつかると、其処から先へは進めないで、未解決のまま止るの外はなかった。そうだ、「今に分ること」だったのだ。私はじっとしていた。彼女も私の卓子の横につかまりながら、身動きもしなかった。寝間着のまま素足で、眉根に皺を寄せ口をきっと結んで、眼を見据えていた。このままでいつまでもじっとしていたら、どんなことになるか分らない、と私は思った。夜が深く静まり返って、氷のような沈黙が落ちて来た。
「もうお寝み!」と私は云った。
彼女は答えなかった。
私は椅子から立ち上って、室の中を歩きだした。「お寝みよ!」と私はまた云った。彼女は黙ってい
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