が気になり、彼女の方へ却って心が惹き寄せられました。彼は嘗て、恋愛の気持ちで女を想ったこともあり、商売女のところへ通ったこともありましたが、そういう過去の事柄も影が薄らいで、彼女の姿と香水の匂いだけが、彼の前に大きく立ち塞がってきました。そして彼は、その秘書主任の独身の三十女を、ひそかに想いあらわに恐れながら、便所で映画や芝居の切符を彼女から貰いました。それはもう屈辱や佗びしさを通りこして、滑稽でさえありました。
そういう会社の、社長の宅の、あの大きな欅に雷が落ちて、欅はまっ二つに裂かれました。それがまざまざと、立川一郎の眼に残っていました。しんしんとした感じで、悲哀に似ていました。
彼はゆっくりと墨をすり、更にゆっくりと辞職願を書きました。一身上の都合に依り考慮する所ありてと、一字一字、墨色を眺めながら書きました。書き終ると、封筒に収めました。それから、一時間ばかりぼんやりして煙草をふかしました。
社内にはもう話し声もせず、十数名の者が、並べ据えられた長卓のあちこちに散らばって、居配りをしたり、印刷物を読んだりしていました。
立川一郎は静かに立ち上って、衝立の向うの一廓になっ
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