ゃないか。」
「そんなばかなことが……。」
「実際そうなんだから仕方ないよ。何でもない、一寸した刺戟性の香料みたいなものさ。……香料と云やあ、面白い話があるよ。僕の友人に医学士がいてね、ふと考えついて、病院の実験室で女の鬢附油を使ってみた。何でも硝子と硝子とを密着さして空気の流動を防いで、その硝子器の中で血液中の酸素を調べたりなんかする実験なんだ。その硝子を密着させるのに、普通はワゼリンを使用するんだが、粘着力がわりに弱い。そこで鬢附のことを思いついて、やってみると、なかなか成績がいい。……ところがね、鬢附をねっていると、その匂いがぷんと鼻にくる……。薬品の香のこもった厳粛な実験室だ。その中で鬢附の匂い……そして、色街《いろまち》のことがふっと頭に浮ぶ……。そうなると、その日は駄目だが、一晩遊んで翌日からは、平素に倍して実験に身がはいる……と云うんだ。普通の男にとっては、遊びなんていうものは、それが全部で、そしてそれだけのものさ。」
 話してるうちに、橋のところに出た。油ぎったどろりとした水が、波紋一つ立てないで、街燈の灯を映していた。
「じゃあ僕は、ここで失敬しよう。」
 武田は突然
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