よ。」「どうして……。」「どうしてって……まあかりに、一度も赤ん坊を見たことのない者があるとすれば、その者は屹度自分が昔赤ん坊だったことなんか、夢にも知らないでしょう。」「夢にくらいみるかも知れませんよ。」「さあ……。僕は一度も赤ん坊の夢を見たことがないんです。」「ほんとに。」「ええ。」敏子は信じられないという顔付をする。武田は淋しく微笑する。それから、ふいに憂欝な仮面みたいになる。赤ん坊が快活に躍り跳ねている。静かだ……。
佐野は、自分一人がその群から圏外に出てるように感じた。
――こいつはどうも少し変梃だ。
彼はまじまじと敏子の眼を覗きこんだ。
敏子は聊かたじろぎもしなかった。以前より落付も出来、重みもつき、前よりいくらか美しくなり、肉附も血色もよくなっていた。
「あなたはこの頃、何だか変に軽っぽくなりなすったようよ。どうなすったの。もう一人前のちゃんとしたお父さんじゃありませんか。」
「うむ、そうだそうだ。だから僕も考えてるんだ。」
「何を…。」
「しっかりしようとね。」
「あれですもの、じきに。冗談だか真面目だか、あなたはちっとも区別がないわ。」
「…………」
彼はいきなり敏子を抱き上げた。彼女は軽かった。それが満足なような不満なような、訳の分らない気持で、彼はふらふらと外に出歩いた。
佐野は夜更けてから、タクシーで帰ってきた。電車通りの角で降りて、それから三町ばかりのところを歩いた。
しいんと寝静まった薄暗い横丁だった。夜気が冷く頬に触れた。
彼はそういう場合のいつもの通り、半夜の相手の女のことなんかはもう遠く忘れかけていた。そして平素よりも遙に、落付いた真面目な気持になっていた。しみじみと人生を考える、そういう心の状態だった。
――俺は一体何のために生きてるんだ。
うそうそとそこいらを嗅ぎ廻ってる犬の側を、親しい気持で通りぬけて、ふと、ひどく淋しくなった。真裸で一人つっ立ってるような、肌寒い感じだった。
門をはいって、締りをして、家にはいろうとすると彼はびっくりした。遅い折にはいつも引寄せてある玄関の戸が、一枚開け放したままだった。
更に彼がびっくりしたことには座敷に電燈がついていて、それに黒い布の覆いがされて、ぼうっとした中に、敏子が端然と坐っていた、子供が真赤な顔で眠っていた。
「どうしたんだい。」
玄関に出迎える筈なのを
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